2010年12月29日水曜日

Theatre Essay 観劇雑感「大人の動き、子どもの動き、人形の動き。」(2010.11.27 かわせみ座「ぽえピュア」)

(「ぽえピュア」出演のパペットたちと飛翆、藍義啓 写真提供・かわせみ座)
11.27 かわせみ座「ぽえピュア」(座・高円寺2)
 
 薄闇の中に赤いリボンがゆらめく。音楽に合わせ、はじめは小さく、しかし次第に大胆に。
新体操のリボン種目よろしく、演じ手がスティックに取り付けた二本のリボンを操っているだけなのに、それはまるで、生きて意思を持つものであるかのように踊る。
観ている側はすぐに、これが「炎」を表していることを了解し、危うさや美しさを秘めたその動きを眺めつつ、ふとこんなことを思ったりする。「そういえば子どものころ、不思議がりながら蝋燭の炎に見入ったことがあったっけ…」。
5分にも満たない短さながら、「子どものような無垢な発想」を「大人の熟練技術」で見事に表現している点で、このシーンは実にかわせみ座らしい、と言える。
大人の中の「童心」を呼び覚ます、こうした場面が次々に展開する「ぽえピュア」。(「ポエム」と「ピュア」を組み合わせた造語だそうだ。)再演である今回はそれに、演者の「動き」を見比べる面白さも加わっている。
人間(俳優)と人形が共演するかわせみ座の舞台では、人間、あるいは人形ならではの動きの可能性と限界とが、同時に提示される。今回も、クラシックバレエ経験があると思われる女優、益村泉とパントマイマーの藍義啓の、身体訓練を積んだ者ならではの、指先まで神経の行き届いた滑らかな動きと、人形作家でもある山本由也が扱うパペットたちの、人形ゆえのぎこちなさと、人間にはない柔らかさを併せ持った動きが交錯し、自由な動きとは何か、美しい動きとは何かと考えさせる。そこにもう一つ、今回は山本、益村夫妻の長男でもある少年、飛翠(ひすい)の動きが、新たなスパイスとなっている。
彼は5年前から既にかわせみ座の舞台には出演しており、はじめは「小さいのに頑張っている、かわいい男の子」的存在だったのだが、11歳になった今、演じ手としての自意識が生まれたのだろうか。明らかに、どう演じるかを自ら考え、舞台に居ることを楽しみ始めていることが伝わってくる。その一方で、以前は幼児の身体ゆえの、人形にも近いぎこちなさをはらんだ動きだったのが、今回は手足もずいぶんと伸びて表現力も増すと同時に、いかにも活発な男の子らしく、元気が体に収まらず、あちこちから噴きだしているかのような動きを見せる。繊細なパペットを扱う作品世界で、そのやんちゃな動きは突出して見え、目には見えないはずの「子どもの生命力」とでもいうべきものが、ほぼ黒幕のみのシンプルな舞台に、花火のように鮮やかに浮かび上がる。
大人の動き、人形の動き、子どもの動き。
それぞれに美しく、自由で、味わいがある。
三者の対比がこれほど興味深い舞台、かわせみ座以外にはちょっと思いつかない。

2010年12月4日土曜日

Theatre Essay観劇雑感「日本のstorytelling、落語」(2010.11.20花緑ごのみ『我らが隣人の犯罪』)

「我らが隣人の犯罪」(赤坂REDシアター)
 宮部みゆきの同名小説を真柴あずきが脚色したこの新作落語を、柳家花緑は和服でなくスーツに身を包み、座布団でなく白いコンテンポラリーなソファの上で語る。
現代版長屋ともいうべきタウンハウスに引っ越してきた一家の子どもたちが、隣家の飼い犬騒音トラブルをきっかけに、思いがけない大事件に出会い、少しだけ成長してゆく。飼い犬のけたたましい鳴き声を、のどを痛めんばかりにリアルに再現し「いやもう大変なんですから」と笑わせたりしながら、花緑はスリリングでいて、良質な子供向け冒険小説のようなほのぼのとした物語世界をテンポよくつむいでゆく。のみならず、最後にはソファから立ち上がり、激しいアクションまでやってみせる。
このニューウェーブ落語を観て(聴いて)いて、ふだんは「日本の伝統芸能」というジャンルにおさめられていて忘れがちだが、落語は世界のどこにでもあるstorytelling(物語り)の一種であることを改めて思った。
歌や踊りと並んで人間の最も原始的、本能的娯楽である、人から人へ、口から耳へと物語を伝える行為。
最近、経済破綻に苦しむ様がニュースでも話題のアイルランドなどでは、今も農村部を中心に「生きた」娯楽として存在している。
だがアイルランドのstorytellingと決定的に違うのは、落語が「プロによる立体的、演劇的物語り」であることだ。アイルランドにもプロの語り部はいるが、主流は民間で、趣味を同じくする人たちが誰かの家に集まり、暖炉を囲み、紅茶のマグを片手にしながら順繰りにお得意の物語を披露する、といった全員参加形式。語る内容もアイルランドでは神話、歴史的エピソード、笑い話、怖い話、宗教色の濃い話など様々ではあるものの、ストーリーをテンポよく語っていくことが「肝」で、台詞はそう多くない。それに対して、落語は物語の中に台詞が頻出、基本的に座布団に正座してはいるものの、手を使った形態模写もしばしば登場。まるで情景がそこに再現されているかのような、演劇的な語りなのだ。
アイルランドには「三枚のお札」風の話もあれば、人間の姿をした動物と人間が結ばれる話など、日本の民話と類似した物語もある。以前、ミュージシャンのエンヤにこのことを話したとき、「昔、どちらかの国の人が旅をしたときに伝わったのではないかしらね」などと盛り上がった。
こういう物語をネタに、アイルランドの語りと日本の落語の競演、というのがあっても面白いのではないだろうか。

Theatre Essay観劇雑感「演じ手も観る側も」(2010.11.18 劇団四季『スルース』)

劇団四季「スルース」(自由劇場)
 演じるのが実に楽しそうだ、と思わせる役がある。
例えば歌舞伎「髪結新三」の長屋の家主。主人公が悪事で得た大金を、「ちょいとごめんなさいよ」とばかりにひょいと登場し、巧みに言いくるめてせしめてゆく。その老獪な風情とせりふ回しはいい役者の腕の見せ所なのだが、本作のドプラー警部も同様だ。
ぼさぼさの髪に着こんだコート、「…なんですわ」という野暮ったい口癖。いかにもうだつがあがらないようでいて、捜査を始めると一転、眼光鋭く、ささいな矛盾にもくらいつく。  
ところがこの男には、実は劇中のあるキャラクターがひそかに変身した人物である、という「仕掛け」がある。よく考えればドプラーという名前からして、同じ音でも振動数の変化によって異なって聞こえる科学現象名そのものだ。
作者のアンソニー・シェファーがいかにもにやりとしながら、演技者に「どうぞ存分に作りこみなさい」と委ねているかのようなこの役を、今回演じる下村尊則は浅利慶太の演出のもと、丸めた体、くぐもった声といった身体的な特徴からちょっとしたしぐさ、「ドプラー節」に至るまで緻密にこだわり、作りこんでいる。「実はあの人物?」と推理する手掛かりとなりそうな、もともとのキャラクターと同じ、上着を頻繁に触る癖。ペンを手帳に打ちつけながら、歌舞伎の名ぜりふよろしくたっぷりと聴かせる追及のせりふ。正体が明らかになると一転、てきぱきと仮面を剥いでゆくテンポの良さ…。
ディテールの一つ一つから、下村はあんなふうに、こんなふうに工夫して行ったのかしら、と想像出来て楽しい。演じるという仕事の醍醐味の一端を、観ている側もシェアできる役である。

Theatre Essay 観劇雑感 「温かな、声」(2010.11.3 『ファントム』)


Theatre Essay シアター・エッセイ 観劇雑感」について
 劇評、ではありません。
舞台を観ながら感じたもろもろのうち、一つ二つを記してみました。
公演期間の短い日本では、記事化する頃には終わってしまっている舞台も多いかと思いますが、本欄を見て、言及した作品に限らず「こんど劇場に行ってみようか」と思ってくれる方が一人でも増えれば、嬉しい限りです。

「ファントム」(赤坂ACTシアター)
 もしも、その醜さのため、生まれてからずっと地下世界に閉じ込められたとしたら、どんな人間が育つだろうか。
 他との交わりがない中で社会性が欠如し、絶望と怨恨の化身となって、罪を罪とも思わず犯すようになるかもしれない。
その一方では純粋培養ゆえに、この上なくイノセントな面も持ち合わせるだろう。
本作がそんな主人公の苦悩と救済に焦点を置き、同じ物語を原作としながらも愛の三角関係を主軸としたロイド=ウェバー版とは大きく異なることを、この舞台は何より「声」で伝えている。
主人公のエリック、通称「怪人」は開幕早々、オペラ座の従業員をめった刺しにして殺害する。だがその残忍な所業とはうらはらに、このシーンで彼が発する声には、どこかぬぐい難いぬくもりが滲む。演じ手、大沢たかおが持って生まれたこの声質は、怪人には不似合いではなかろうか? そう、引っかかりを覚えさせる導入だ。
しかし物語が進み、二幕の冒頭が始まるころには、現代ならさしずめ「児童虐待」と言うべき怪人の哀しい生い立ちと苦悩が明らかとなり、彼への嫌悪感は揺らぐ。そして怪人がクリスティーンの声に、今は亡き母と同じ「闇に差し込む一条の光」を見出だし、彼女を不器用にも愛そうとする様を目撃するうち、人間は本来、完全な悪にも善にも染まるわけではない、と示唆するこの舞台には、大沢の、本質的に温かなこの声こそが必要だったのだと気づかされる。
「お母様はかつて、(醜く生まれた)あなたを見て微笑まれたのでしょう?」
私もそうできるから、とクリスティーンは怪人に素顔を見せるよう促す。その言葉に母の再来を感じて怪人は仮面を取るが、ひと目見た彼女は恐れおののき、去ってゆく。彼女の中に、母の愛に匹敵するような無償の愛は無かったのである。ここでクリスティーンと怪人の「光」と「闇」は入れ替わり、彼女は無意識のうちに残酷な存在と化し、怪人の純粋な心は深く傷つく。
登場人物の一人は「クリスティーンの声はエリックの母親の声にそっくりだ」と言い、怪人も終盤、「クリスティーンの声を聴けて良かった」と言う。しかし、クリスティーンは彼の母親に「似た声」を持っていたまでであって、彼を救ったわけではない。彼が最終的に救いを得たとすれば、それはクリスティーンの声をきっかけに自ら、人を愛することを学び、忘れかけていた人間性を再生して行ったということに他ならない。
この人間性の象徴が、彼が知らず知らず母親から受け継いでいたもの…「声」なのである。幕が下りてもなお、耳に残る大沢たかおの声。それは劇中、一度も登場することのない怪人の母の存在を感じさせるものでもある。ずしりと重く、けれども温かく。