2012年7月14日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『魂の不滅』という希望」(2012.7.14劇団四季『アイーダ』)

劇団四季『アイーダ』冒頭シーン。(c)Disney 撮影:下坂敦俊 四季劇場「秋」にて8月12日まで上演中。http://www.shiki.jp/
 エルトン・ジョン&ティム・ライスの『アイーダ』が、久々に東京で上演されている。
100回生まれ変わっても続く」ほどのゆるぎない愛をシンプルに、室内オペラ風に描いた本作は筆者の好みで、これまでも日本はもちろんオランダ、米国、韓国など、各国版を楽しんで来た。今回の東京版も、堂々たる女王のたたずまいと情の深さを醸し出す秋夢子のタイトルロールが適役で、引き込まれる。
 舞台を観て間もなく、英国への家族旅行の折に大英博物館を訪れた。ベビーカーを押しつつロゼッタストーンなどの「必見コーナー」や筆者が愛するケルト美術を堪能し、「そろそろ帰ろうか」と館内地図を見やると、「Nubia」の文字が目に飛び込んで来る。『アイーダ』のヒロインが劇中、誇りと愛情を持って語り、歌っていた故郷、ヌビアだ。大英にはこれまでにも何度か来て、ほとんどの展示室を見ている筈なのに、不思議とこのコーナーの印象はない。幸い、娘はまだぐっすりお昼寝中。「もう少しだけ」と、ベビーカーごと踵を返した。
 ヌビアとはナイル河の中ほど、アスワンから南の地方のことで、今で言うエジプトとスーダンにまたがっている。「ヌビア、スーダン」室の展示は、この地方の沿革を、主に土器などの発掘品や古代エジプトに残された資料を通して紹介しているのだが、古代エジプト室の隣、というロケーションが災いして(?)か、ほとんどの人が足早に通り過ぎていく。エジプトのミイラや絢爛たる埋葬品にさんざん胸躍らされた後では、簡素な土器が余計に地味に見えてしまうのだ。
 唯一、人々が足を止めて見入っているのが、中央に置かれた小さなスフィンクス。紀元前
680年ごろのもので、エジプトのあのスフィンクスとだいたいの形は同じだが、顔つきがどこか違う。当時のヌビアの王国、クシュのタハルカ王がモデルだという。ヌビアはその歴史の大半においてエジプトに征服され、『アイーダ』もそのさなかに侵略者と捕虜として出会う将軍と王女の悲恋物語だが、実際には、長い時の流れの中でエジプト王国は凋落し、やがてペルシャやローマに征服されるところとなる。タハルカはその少し前に、内乱状態のエジプトを統一し、よく治めたクシュ王の一人だった。
 壁画だろうか、古代エジプト人が描いた「ヌビアの男性像」にも目が留まった。濃い褐色肌に細く縮れた髪、スレンダーな体。大きなイヤリングと豹皮の腰巻がなかなかお洒落で、これは典型的なヌビアの男性像だという。エジプト人とは明らかにルックスが異なり、『アイーダ』をアメリカやオランダで観た時、ヌビア人のアイーダはアフリカ系、エジプトの人々は白人の役者が演じていたのにも納得がゆく。そういう意味では、かすかに外国語のアクセントの残る秋夢子がアイーダを演じる現在の東京版も、真実味のあるキャスティングだと言える。
『アイーダ』の舞台設定は紀元前1800年代、エジプトが金などの鉱物資源と奴隷獲得を狙って、何度もヌビアに侵攻していた頃らしい。その年代の展示品の中に、ひょっとして、アイーダの生きた証が潜んではいないか…。淡い期待を持ってなめるようにガラスケースを覗くも、『アイーダ』はフィクションゆえ、あるはずもない。物足りなさを補うように、帰国後、ヌビアについての資料を探した。そのなかで『ナイルに沈む歴史―ヌビア人と古代遺跡―』(岩波新書)という一冊に、少なからず衝撃を受けた。
 本著は1960年にナイルを上り、ヌビアの遺跡を調査したエジプト学者、鈴木八司の紀行書である。アスワンハイダム建設に伴うユネスコのヌビア遺跡救済キャンペーンに、日本はどのような形で参加するべきか。検討材料を集めるべく、現地に派遣された筆者は、チャーターした船がおんぼろで舵が流されたりエンジンが止まったりと、散々な目に遭いながらも、「マーレーシ(仕方ない)」精神でやり過ごし、ダムの底に沈む運命にある各地の遺跡を訪ねる。冒険さながらの紀行文は読み物として純粋に楽しいが、最終章に入るとそのトーンはがらりと変わる。ヌビアの歴史、ヌビア人の性質(「頑固なまでに誠実」だという)や典型的なライフスタイル(エジプトなどに出稼ぎし、ある程度の財をなすと帰郷し、家を建てる)を簡潔に紹介した後で、鈴木氏は、人類がダム建設に際し、大切な視点を忘れていたのでは、と問題提起をしているのだ。
 アスワンハイダムはナイル河の水量を一定にし、農業と電力供給に役立たせるべく建設されたが、その結果、長さ500キロ、最大幅約30キロの人造湖が出現し、約4000キロ平方メートルの土地が沈むことになった。そこには数多くの古代遺跡があり、ユネスコは世界各国に呼びかけ、先進諸国がこれらを競って調査・移築した。現在、観光地として多くの人々を集めるアブシンベル神殿などは、その成果の一つである。いっぽう、水没地域に住んでいた10万ものヌビア人は、エジプト、スーダン両国政府により、故郷から遠い入植地への移住を命じられた。特に遠方の僻地への移住を、有無を言わせず強いられたスーダン側のヌビア人たちは激しく抵抗したが、そのことは国際的な話題にさえ、ならなかったという。
 かくして、10万ものヌビア人が故郷を失った。「ヌビア人は人為によってすでに滅亡したともいえる」と鈴木氏は述べる。ダム建設にあたり、世界は遺跡を気遣いはしたが、そこに住む人々は忘れ去られてしまった…というのである。

 例えばアイルランド人は故郷を離れても、ルーツに強い誇りを持ち、世代から世代へと固有の文化を伝えてゆく傾向がある。その土地を離れたからといって、すぐにその民族が「滅亡した」とは思わないが、人間の気質や文化の醸成にその土地の風土紀行が大きな影響を与えることを考えると、多くのヌビア人が大なり小なり、アイデンティティを奪われてしまったことは否めない。(フェイスブックが「アラブの春」を起こしたことを思えば、今、この問題が起こっていたら違う展開となっていたかもしれないけれど。)
 王国も文化も、長い時の流れの中では儚いものだ。では、この世に「永遠に」続くものなど何一つ、無いのだろうか。
 いや、「ある」というのが、舞台『アイーダ』のテーマであり、あの冒頭、幕切れの演出だ。
 
筆者も、そう思う。この世のすべては儚いものだが、唯一この魂、この愛は、この体が朽ち果てようとも、どんなに長い時を経ても、続いてゆく。そう信じることで、希望が生まれる。生きる「力」となる。
 次にこの舞台を次に観るときには、ヌビアの10万もの民の痛み、喪失感にも思いを馳せつつ、魂の不滅という「希望」を、再確認したいと思う。