2012年12月8日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「温かく、カラフル。木の実ナナの『女子高生チヨ』」(2012.12.2東京グローブ座)


『女子高生チヨ』木の実ナナ(中央)
大阪公演12月11~12日サンケイホールブリーゼ
 何とも愛すべき舞台が、新大久保で上演中だ。『女子高校生チヨ』、60歳にして定時制高校に入学した実在のおばあちゃんの「青春」を、木の実ナナ主演で描いたミュージカルである。(劇中の入学年齢設定は64歳)。

 序盤の「つかみ」は、必ずしもいいとは言えない。物語がチヨおばあちゃんの孫の視線で語られるためか、おばあちゃんがなぜ定時制高校に、という志望動機や家族の反対を押し切る経緯が省かれていて、「うん?主人公はだれ?」ととまどってしまう。木の実ナナの芸歴50周年記念舞台のはずなのだが、チヨの出番がほとんどないまま、物語は定時制高校入学一日目のホームルームシーンへと流れてゆく。

 だが、自己紹介を始めた生徒たちのカラフルな描写に、観客は徐々に魅了されてゆく。テンションの高い中国人留学生もいれば、メイドの扮装をした謎の美女もいる。シングルマザーも、かつて喧嘩沙汰で高校をドロップアウトした青年も、聴覚障害を持ちながら入学した女性もいる。それぞれに訳ありで、やる気のある生徒もいれば自己紹介すらせずに帰ってしまう問題児もいるが、台詞の応酬にはとげがなく、作り手の温かな視線が感じられる(原作:ひうらさとる、脚本:斎藤栄作、演出:板垣恭一)。それぞれ雰囲気にぴったりの曲やセリフが割り当てられていて、全員がキャラ立ちしているのもいい。これは面白くなりそう、と思わせた頃に、満を持して(?)遅刻したチヨが登場。くるくるパーマに学生服、ルーズソックスにヒール靴という女子高生姿に全く違和感のない木の実ナナが、ぱっと舞台に華やぎを与え、ここからが本当の始まり、始まり。

 2世代も年下の同級生たちとのコミュニケーションや勉強の難しさに、チヨは当然のようにはじめは苦労し、落ち込みもする。だが、中国人に怪しげな「愛の言葉」を教え、シングルマザーを励まし、飛び降り自殺寸前の美女に「あなたが私を嫌いでも、私は好きよ!」と語りかけて思いとどまらせるなど、生来のおせっかいが現代の若者たちには逆に珍しく、次第に「チヨさん、チヨさん」と慕われるようになる。この役を演じる木の実は、ちょっとした仕草や立ち姿が美しく、スターオーラに満ちていて、実際にはこんなおばあちゃんはそうそういない…はずなのだが、舞台を観ていると、実際の「チヨ」さんもきっとこんなふうなのでは?と思うほど、リアリティを感じさせる。彼女自身の嫌味の無さや、ポジティブな「気」によるものなのだろう。

 前述のとおり生徒たちもそれぞれに個性的だが、とりわけ、音楽をあきらめかけた青年を励まそうと、シングルマザー(明星真由美)と聴覚障害の生徒(大橋ひろえ)がドリカムの「何度でも」を歌い踊るシーンは圧巻だ。大橋は実際に「耳の聞こえない世界の住人」とプログラムのプロフィールにあるが、他のミュージカルナンバーでも完璧にリズムをとらえて踊っていて驚かされるし、明星の歌声には「挫折のなんたるかを知る人」の魂が凝縮されているようで、思わず引き込まれる。高橋愛(チヨの孫役)、窪塚俊介(中国人役)、小沢真珠(美女役)といった、主に映像で活躍中の俳優も、先生役の新納慎也(ミュージカル界のホープ…と思っていたら、いつの間にかアドリブ自在の頼もしい俳優として、最近つとに大活躍)、理事とチヨの亡き夫の二役の大和田獏(「ゆ~れい、ゆ~れい、ゆ~れいほ~」と歌いながらの登場は本当に楽しそう)といったベテランも、自分の役を生き生きと膨らませつつ、カンパニーとしてよくまとまっているのも、木の実という太陽のような中心軸があってのことなのかもしれない。

 物語後半、定時制クラス廃止の危機にあった生徒たちは、「学園祭でミュージカルを演じ、来校者に存続をアピールしよう」と立ち上がるのだが、やっとのことで上演となった「シンデレラ」は、王子役の中国人が舞台上で役を離れ、「美女」に愛の告白を始めるわ、王子の弟が二人も出てきてシンデレラに求愛するわで大混乱。このドタバタが、ミュージカル形式で展開され、やたらとおかしい。大笑いの後に、「魔女」役のチヨおばあちゃんが、現実逃避に走っていた孫娘に「ちちんぷいぷい」と魔法をかけると、彼女は「本当の自分と向き合おう!」と渡米を決意する。そして、定時制クラス廃止の計画もとりやめになったことが知らされ、大団円とあいなる。

 なるほど…と、観客は思う。出ずっぱりで舞台をひっぱってゆくのではなく、若い世代の中に自然にとけこみ、こんなふうに素敵な魔法をかけてゆく…。これはもしかしたら、芸歴50周年を迎えた木の実ナナというスターの、今の心境に重なるものなのかもしれない、と。年末にぴったりの、じんわりと温かく、後味爽やかな舞台である。

2012年12月5日水曜日

Theatre Essay 観劇雑感 番外編 「心の中の勘三郎さん」2012.12.5


 中村勘三郎さんが亡くなったというニュースを、信じられない思いで読んだ。 

「うまい役者」であった。
 どんな役も滑らかにこなしたが、とりわけ黙阿弥等の世話物を演じると、様式とリアリズムの塩梅が絶妙な演技で、観客を自然に江戸の世界にいざなった。
「髪結新三」の小悪党の凄み。「籠釣瓶」の純情男の狂気。「四谷怪談」の裏切られた女の怨念。「三人吉三」の非情な兄貴分。
 現在も活躍中の尾上菊五郎と並んで、歌舞伎の「世話物」というもの、ひいては「江戸の息吹」というものを今に伝えられる、希少な役者だった。
 時代物では、「忠臣蔵」塩谷判官や九段目のお石ら、封建社会の枠組みの中で理不尽な運命に耐える人々を、品性と悔しさとを滲ませながら演じた。
 

 同時に、群を抜いた「プロデューサー」でもあった。野田秀樹や串田和美、渡辺えり子ら、現代劇の人々を歌舞伎に引き入れ、「野田版 研辰の討たれ」のような傑作を生みだし、コクーン歌舞伎で古典の新演出を試みた。江戸時代の芝居のスピリットを「平成中村座」で体現もした。2004年の平成中村座のNY公演では、現地の風景や人々を取り込む演出で、それまで「歌舞伎と言えば隈取、女形…」といった古典的なイメージしかなかった海外の人々に、江戸時代に本来歌舞伎が持っていた「アバンギャルドな芸能」という側面を見せもした。間違いなく、21世紀の歌舞伎の可能性を拓いた人だった。一度、ある雑誌の対談企画をコーディネートしたことがあるが、表では常にエネルギー全開のように見える彼が、対談では楽しいエピソードを繰り出しながらも、要所要所では思慮深く言葉を選んでいた。大きな夢を次々と実現してきたのは、彼の役者としての技量と人気に加えて、この聡明さがあってこそだと感じたものだった。 

 そして何より、「チャーミングな役者」だった。歌舞伎座でも、コクーンでも、NYでも、彼は花道から舞台から愛嬌たっぷりに登場し、観る人の心を掴んだ。「役者本人であると同時に役を演じる」という、歌舞伎独特の役者の在り方を体現していた。筆者は学生時代、ある役者さんの付き人をしていて、花道鳥屋で勘三郎と遭遇したことがあったのだが、筆者が学生歌舞伎である役を演じると知って「あの役はね、これこれの型でやってみると面白いんですよ」と、もう1分後には出番だというのに別の芝居の話を、学生相手に、実に丁寧にしてくれた。そしてきりっと役に切り替えると、鳥屋から花道へと踏み出していった。
 チャリンという音の余韻の中を、歩いてゆくその後ろ姿の残像が、今、心の中に蘇る。