2013年11月15日金曜日

Theatre Essay観劇雑感  「歌舞伎」という芸能ならではの、伝承という温もり(『明治座十一月花形歌舞伎』)



獅童、右近、笑也、松也という珍しい顔合わせで、明治座で花形歌舞伎公演が行われている。 

夜の部は歌舞伎十八番『毛抜』、舞踊『連獅子』、新歌舞伎の『権三と助十』という取り合わせだが、この中では『毛抜』が面白い。怪奇事件に揺れる小野家に乗り込んだ粂寺弾正が、毛抜きをしていて事件のからくりに気づき、陰謀を暴くというのが主筋で、バイセクシャルらしい弾正が小野家の美少年や腰元にちょっかいを出しては振られたり、トリックに気づく瞬間を連続見得で華麗に見せたりと、弾正の破天荒で稚気溢れる描写が立体感をもたらす演目だ。 

『毛抜』獅童 写真提供:松竹
弾正を演じる獅童は、(今は亡き)團十郎に役を習ったのだという。後半、悪者たちを追い詰めてゆく台詞を聞いていると、ところどころ團十郎を髣髴とさせる口跡にはっとさせられる。師の台詞を聴きこんで、役に取り組んでいることがうかがえ、芸を世代から世代へと渡してゆく、「歌舞伎」という芸能ならではの温もりが感じられる。 

“黒幕”玄蕃を大きさ十分に、ゆとりをもって演じる猿弥、類型的な「なよっとした美少年」ではなく武家らしく芯のある秀太郎を演じる春猿のうまさが光り、古風な風情で観る者をほっとさせる門之助が、小野家当主を楷書で演じて舞台を引き締める。また通常はベテランが演じる家老をまだ20代の松也が落ち着いて演じているのが、嬉しい驚き。当主の息子役の笑也、腰元役の笑三郎、姫役の新悟もそれぞれに役を過不足なく演じていて、華やかな一幕となった。 

『連獅子』を踊るのは右近と名代昇進した弘太郎。澤瀉屋ならではのきびきびとした前半の振りを、ぴったりの息でこなし、子を千尋の谷に突き落とす獅子の物語を鮮やかに描いて見せる。 

『権三と助十』松也、獅童 写真提供:松竹
『権三と助十』は駕籠かきの主人公たちが或る冤罪事件に、目撃者として関わってしまう話。助十を演じる松也が冒頭から見せる半裸が、前月、ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』でその颯爽とした洋装を見た目には衝撃的(?!)だ。そんなギャップもご本人、観客ともに楽しんでしまうのが、歌舞伎の懐の深さと言うべきだろう。 

*明治座十一月花形歌舞伎 上演中~25日=明治座

2013年6月8日土曜日

Today's Report [Travel] 子連れに[も]優しい、英国の美しい宿 vol.2


ケアリー・アームズ(Cary Arms, http://www.caryarms.co.uk ) エントランス
(C) Marino Matsushima
英国一の海リゾートに登場した、「気取らない」お洒落宿
 
デヴォン州南部の22マイルにわたる沿岸部は、その温暖な気候ゆえ、ヴィクトリア時代以降「イングリッシュ・リヴィエラ」と呼ばれ、英国屈指の人気リゾートとして知られている。ヴィクトリア女王は「絶壁と森に囲まれたこの海には、バレエや戯曲で描かれたニンフ(水の精)が住んでいそう」と語り、現地を代表する町トーキーに生まれたアガサ・クリスティも、エリア内の各地を舞台に推理小説を書き、その優雅なイメージに貢献してきた。そんなイングリッシュ・リヴィエラには最近徐々にお洒落なブティックホテルが建ち、新たな客層が増加。今回訪ねたケアリー・アームズ(Cary Arms) も、そんな宿の一つだという。 

バッバコムという、海沿いの小さな村の崖に張り付くように、この宿はある。短い坂道をジグザグ降りながら入って行くのだが、これがスキー場なら足がすくむような急こう配。よくまあこんなところに建てたものだと思いながら、やっとのことでエントランスに着く。ガストロ・パブ(近年英国で流行っている、伝統的なパブ料理をスタイリッシュにアレンジした店)に8つの客室を併設し、周辺に週単位貸のコテージ4軒を建てた、シンプルでこぢんまりとした作りの宿だ。 

意外にも透明度の高い、静謐な海。桟橋から見下ろすと、泳いでいる魚が
見える。浜辺は奥へと歩いてゆくにつれ、細やかな砂に変わってゆく。
(C) Marino Matsushima
海辺ならではの解放感に加え、入口がパブのそれでもあるので、気安さは満点。カウンター内側に声をかけると、看板娘(?)の気さくな女性スタッフがひょい、と笑顔を覗かせる。「駐車場の入口が狭くて、車が入れられないんですが…」というと、「鍵置いてくれれば、入れとくわよ」。2歳の娘にも「あら、おちびちゃんもいたのね、こんにちは」と自然に声をかけてくる。後に分かることだが、この気取らない「感じの良さ」は、どのスタッフにも共通していた。 

客室Admiralのテラスから眺める日の出。(C) Marino Matsushima
スペイシーなバスルームからも、海が
一望できる。(C) Marino Matsushima
客室は全室、海に面したシービュー。私たちが案内された部屋Admiralは一番奥まった位置にあり、窓の外にはごつごつした岸壁と、それとは対照的に静かな海が広がっている。早朝、黒い岩の間からぐんぐんとのぼり、海面に光を投げかける黄金色の朝日。これを見るためだけでも、泊まる価値があると思える。日の光は、寝室より広いのでは?というほど大きな浴室にも燦々と差し込み、朝のバスタイムを何か特別な、輝かしいひとときに感じさせる。

洋酒入りのウェルカム・ケーキは、濃厚だが長旅の
疲れを癒すにはほどよい甘さ。(C) Marino Matsushima
ロケーションが一番の魅力であることは宿自身心得ているようで、ボートやダイビングの手配はリクエストに応じて行っているものの、特別なアクティビティは、ここでは用意されていない。ただ、部屋の片隅に、この宿用に編集された「ウォーキングガイド」が置いてあり、周辺のウォーキングルートや代表的な見どころが丁寧に紹介されている。一色刷で文字と地図だけの地味な冊子なのだが、「…博物館の無料チケット、受付に用意しています」などお得情報も書かれていて、精読に値する。チェックイン時に部屋に置かれた子供用の玩具もそうだが、こういうさりげない、しかし気の利いたプレゼントが、このホテルらしさなのかもしれない。 

馬たちが草をはむ、ダートムア国立公園。
(C) Marino Matsushima
宿を拠点とした観光としては、子供が1時間以上歩けるなら、前述のウォーキングが楽しそうだが、車を使えばアガサ・クリスティの生地トーキーや別荘のあるグリーンウェイ、美しい港町ダートマス、大聖堂のあるエクセターなど、見どころは数多い。そんななかでチビ連れでも意外に楽しいのが、ダートムア国立公園だ。 

荒野を下りながら、かくれんぼ。
(C) Marino Matsushima
広大な荒野に古代遺跡や奇岩が点在する公園だが、なだらかな起伏があちこちにあるので、子連れハイキングにちょうどいい。アガサ・クリスティが最初の小説「スタイルズ荘の怪事件」を書いたムーアランドというホテルがあるというので見に行くと、その先の小高い丘の上にどんとそびえる奇岩があり、いかにも手招きされているよう。娘に「あそこに登ってみる?」と聞くと、途中、野性馬の群れに気がまぎれたこともあって、かなりの距離を歩きおおせた(最後はパパに肩車をしてもらっていたが)。目標だった奇岩の後ろに回ってみると、何人ものロッククライマーたちがびゅうびゅうと吹き付ける風をものともせず、本格的な装備で登っている。初めてだらけの光景にはしゃいだ娘は、下る途中ヒースの茂みを見つけては、最近、娘が気に入っている遊び「かくれんぼ」をしたがり、大人二人はその都度、娘の背丈ほどしかない茂みの後ろに、かがみこんで隠れる羽目になった。

サンルーム席でのディナー。
手前がお子様メニューの
(巨大!)ソーセージ。
(C) Marino Matsushima
宿に帰ると、休む間もなくお砂遊びに繰り出し、気が付けばディナータイム。のんびりしているようでも、時間の過ぎるのはあっという間だ。食事スペースはパブ内部、サンルームの2タイプあり、どちらからも海が見え、居心地がいい。料理は定番メニューに加え日替わりも用意していて、フレッシュで旬な食材を生かすことを心がけているらしい。パブらしい豪快さを残しつつも美しい盛り付けだが、どれを頼んでもボリュームたっぷりなので、前菜、メインのどちらかだけでもいいかもしれない。 

パブスペースでの朝食。娘はもちもちと
したパンケーキ(手前左)をいたく気に
入っていた。(C) Marino Matsushima
「お子様メニュー」というのがあったので頼んでみると、「ソーセージ」は日本のラーメン鉢よりも大きなボウルにマッシュドポテトを敷き詰め、長いソーセージが2本。「チキン」は特大のプレートにフライドポテトが山盛り、その上にナゲット風のチキンが二つ…と、シンプルこの上ない。食いしん坊の娘は夢のようなてんこ盛りを前にニコニコ顔だったが、親としては日本のお子様ランチ風に、何種類かの食材を使って欲しいという気もしなくもない。朝食のビュッフェ、ホットミールはチョイスも多く、一つ一つが申し分なかっただけに、この点は今後に期待したい。 

宿泊客専用ラウンジ。(C) Marino Matsushima
パブの奥、ゲストルームへの扉を押すと、宿泊客専用のラウンジがある。ここも海を一望できる作りで、古書やちょっとしたゲームなども置かれている。もう少し子供が大きくなったら、この空間で一緒にゲームに興じたりもできるのだろうか…。
テーブルに置かれたチェスの駒を持ち上げては「これお馬さん?こっちはなあに?」とパパに尋ねる娘を眺めていて、そんな未来をふと、夢想してしまった。

2013年6月5日水曜日

Today's Report [Travel] 子連れに[も]優しい、英国の美しい宿 vol.1


「伝統」「格式」を重んじ、子連れ客はあまり歓迎してこなかった英国の高級ホテルが近年続々と方針を転換、「ファミリーフレンドリー」を大々的に打ち出している。サマリー記事は日経トレンディネットhttp://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20130524/1049562/?top_os13&rt=nocnt

で書いたのでそちらをご参照いただきたいが、ここでは実際に子連れで体験した2軒の宿の、書ききれなかったディテールをご紹介したい。

 

続々と高級車が停まる、「ミンスター・ミル」の車寄せ(C) Marino Matsushima
コッツウォルズ、田園の美しい宿「オールド・スワン」

「オールド・スワン&ミンスター・ミル」(The Old Swan & Minster Mill http://www.oldswanandminstermill.com/ ) は、1445年創業の古い宿場宿、「オールド・スワン」に新館やスパなどを併設し、2010年に新装開業したホテル。ゲストは全員、新館のミンスター・ミルでチェックインを済ませ、新館もしくは「オールド・スワン」の客室に案内されるというシステムで、午後のチェックインタイムにもなると、ミンスター・ミルの車寄せには一目で高級車と分かる車が次々に現れる。 

枕元の「お楽しみパック」とミニ・テディベア。
2歳児でも持ちやすいサイズというのがいい.。
(C) Marino Matsushima
「オールド・スワン」に足を踏み入れると、改装されているとはいえ、デザインはリチャード3世が統治していた当時のまま。その重厚感に一瞬、「子連れで、場違いなところに来てしまったかな…」と気圧されるだけに、客室ベッドに置かれた子供用の「お楽しみパック」の存在が、ほっと心を和らげる。このお楽しみパック、各アイテムは簡単な作りでクレヨンは4色、神経衰弱ゲームはぺらぺらな紙なのだが、機能的には問題がなく、帰国後1か月経っても我が家で普通に使えている。田園の宿にマッチした「ファーム」柄というのも、心憎いチョイス。それほど経費をかけなくても気の利いたゲストサービスが出来るという、一つの例だろう。

改装時に現れたという、リチャード
3世統治時代の壁画。
(C) Marino Matsushima


子どもの平衡感覚に働きかけそうな
遊具が揃っている。写真右は、ホテルの
オーナーで、マネージャーでもある
タラ・ドゥ・サヴァリーさん
(C) Marino Matsushima
ミンスター・ミルの裏手には子供用の「遊び場」があり、図画工作系からスポーツ系まで様々なアクティビティの拠点となっているが、オールド・スワンの裏手にも、動物ふれあいコーナーやちょっとした遊具が用意されている。ここの遊具、ループを吊り下げたようなブランコと平均台がメインで、この乗りにくいブランコは子供の平衡感覚を刺激しそうだし、平均台は最近の幼児教育で「脳の発達に働きかける」と注目を集めるアイテム。子を持つ身としてはこういうディテールに、ホテルの本気度を感じる。 

敷地内にはさりげなくクロケーの用意が。背後にはホテル敷地内を通り抜ける
ウィンドラッシュ川があり、気軽に釣りが楽しめる。(C) Marino Matsushima
とはいえ、ホリデイシーズンを除けば子供ゲストは少数派。このホテルでは圧倒的多数派の大人ゲストたちにも、クロケーや屋外チェス、釣りなど魅力的な遊びを用意していて、外出なんぞせずに一日中敷地内のんびりしようかという気にも、1泊ではとうてい足りない!という気分にもさせる。そんななかで、一番人気はやはりスパでのトリートメントだそう。高級ホテルに泊まり、子供をベビーシッターに預けて夫婦でマッサージやフェイシャルを受ける…というのが、英国富裕層の基本的なホリデイ・スタイルであるらしい。 


併設スパではフランスのYonka化粧品を使用。
(C) Marino Matsushima
Old Swan でのランチ。レストラン内には
甲冑レプリカなど、重厚感溢れる
インテリアが。(C) Marino Matsushima
筆者は仕事柄、英国はじめフランス、イスラエル等様々な国でスパ・トリートメントを受けているが、正直、日本のエステティシャン以上のテクニックを持つビューティー・セラピストにはあまりお目にかかったことがない。触っている程度のマッサージだったり、反対に涙が出るほど痛かったりといった具合なのだが、ここのセラピストはなかなか、腕がいい。フェイシャルを受けたところ、それまで気になっていた皺が二日ほど完全に消えていたし、何より、いつもはどんなマッサージをするのか興味津々で寝るどころではないのに、今回は最後の15分ほどは完全に寝てしまうほどの心地よさ。肩・背中のマッサージを受けた夫も、「整体系ではなくアロマ系のマッサージとしては力が入っていて良かった」と、長時間のドライブの疲れが癒せたようだった。 

ホテルはコッツウォルズ南東部にあり、域内の主要な村、町へは最長でも1時間半ほどでドライブできる。周辺のスポットとしては、車でわずか15分ほどの距離にあるコッグス・マナーファーム(Cogges Manor Farm  http://www.cogges.org.uk/ )がお勧めだ 。領主の館を中心に、ファームやガーデンなど1800年代当時のまま(あるいは復元)を体験できるというミュージアムで、一時経営悪化からクローズされていたが、村民たちの手で数年前に再オープンしたという。 

村人たちがボランティアで運営している
コッグス・マナーファームとその庭園。
(C) Marino Matsushima

マナーハウス1階のキッチンでは、アンティ
ークプレートでボランティアの女性たちが
クッキーを焼く。(C) Marino Matsushima
マナーハウス内部では、エリアの歴史や当時の暮らしぶりを分かりやすく展示。子供たちはボランティアの女性達がクッキーを焼くキッチンで、型抜きを手伝うこともできる。(我が子は「5分たったら焼けているからそれまで他の部屋を見学していらっしゃい」と言われたが、アンティークの巨大なプレート上で焼かれるクッキーに目が釘付けだった。)また屋外ではヤギやアヒルたちへの餌付など、動物とも触れ合え、敷地の奥には遊具も続々と建設中なので、歴史に興味のある層だけでなく、家族連れにも最適。なにより、地元を愛する村民たちの運営ぶりに、「オールド・スワン」と共通する「手作り感」があるのがいい。ガイドブックにはほとんど載っていない穴場だが、「オールド・スワン」ともどもこっそり、しかし強力に、お勧めしたい。

2013年3月4日月曜日

Theatre Essay「非・主流ミュージカル」の抗い難い魅力(2013.3.1『ノートルダム・ド・パリ』シアター・オーブ)


『ノートル・ダム・ド・パリ』上演中~3月17日東急シアターオーブ、
その後大阪・名古屋で上演。
写真提供:東急シアターオーブ
 映画からディズニーアニメまで、これまでにも繰り返し取り上げられてきたヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』。そのミュージカル版として1998年にパリで初演された本作を、筆者はロンドンで2000年に観た。
それから12年、日本での公演が実現した。「やっと」、という感慨がある。というのも、その頃、本作に関しては日本における翻訳上演の交渉がなされていて、筆者のなかでは「じきに日本でも観られる」ような気がしていたのだ。帰国後、関係者から「これと《某》という演目を検討しているのだけど、君はどちらがいいと思う?」と尋ねられ、「どちらも上演していただきたいですが、好みとしては《ノートルダム》です」と答えたこともあったし、ある美声の俳優を取材していて、ひそかに本作のクァジモド役を狙っていることを知り、「ロンドン版ではこの役、猛烈なだみ声の歌手が歌ってましたよ」と言うと「僕、だみ声出せますよ」と声音を変えて返してくれたりといった会話もあった。
 結局、翻訳上演が叶わなかった背景には、様々な事情があるだろうが、一つには、本作が際立ってユニークなミュージカルであり、そっくりそのまま翻訳上演ということが難しいと判断されたためではないかと思われる。 

 ケベック出身の作詞家リュック・プラモンドンが93年に構想を始め、イタリアの作曲家リシャール・コッシアンテとタッグを組んだ本作は、まずはアルバムのリリースからスタートし、テーマ曲をヒットさせた後、フルステージ版へと発展した。この手法は『ジーザス・クライスト=スーパースター』以降のアンドリュー・ロイド=ウェバー同様だが、決定的に違ったのが、パリでの初演のためにプロデューサーがおさえたのが、キャパシティ4000名の大ホールであった点だ。この時点で、作品は緻密さよりもダイナミズムを追求する「スペクタクル」へと舵を切り、主要キャストは歌手が、アンサンブルはダンサーたちが演じるという徹底した「分業」で音楽とダンスを「競わせ」、またその相乗効果を引き出した。(このスペクタクル形式は「十戒」などに引き継がれ、今やフランスミュージカルの特色の一つともなっている。)
「強烈なだみ声」の持ち主、ガルーをはじめとした個性的な歌手たちは、「ヨーロピアン演歌」ともいうべき、ポップだが独特の憂いをたたえた楽曲を熱唱(このオリジナルキャストの大半はロンドン公演にも出演している)。対して、ダンサーたちはネザーランド・ダンス・シアター(NDT)出身のマルティーノ・ミューラー振付による、地上はもちろん壁をも駆け巡り、大鐘をスイングさせるという、アクロバット要素満載のコンテンポラリーダンスを炸裂させた。観客は熱狂し、750回に及んだパリ公演は250万人を集客した。
だが、会場がコンパクトになれば、見え方も変わってくる。ロンドン公演はパリ公演の半分のキャパシティの劇場で行われたが、筆者は舞台を観ていて、ふと「紅白歌合戦」を思い出してしまった。大ホール仕様で作られているためか、特に曲間における主要人物たちの演出(もしくは演技)があっさりしていて、ドラマ的な連続性に欠け、ミュージカルと言うよりは左右から交互に歌手が登場しては歌うコンサートのように感じられる瞬間があったのだ。日本で上演するなら、やはり2000席前後の劇場でということになろうから、翻訳上演にあたってはここに手を入れられるかどうか、つまり新演出の可否が交渉のポイントとなったであろうことは、想像にかたくない。もう一つ、照明や装置で多用された近未来的?な紫や緑も、日本人的な色彩感覚からするとあまり親しみやすいものではなく、ここも交渉のポイントになっていたかもしれない。 

にもかかわらず、『ノートルダム・ド・パリ』は筆者にとって忘れられない演目だったし、業界内でもこの12年の間、「好きなんだよね」という声はあちこちから聞かれた。今回の来日公演は、この作品の何がそれほどまでに引力を持つのか、再確認する機会となった。
まずはその楽曲。
冒頭の「The Age of the Cathedral」は、物語の水先案内でもある詩人グランゴワールがつぶやくように歌い始め、サビに入ると2オクターブ近く音が上がってゆく。数百年の時を一気に通り抜けてゆく快感を、声一つで観客に味わわせるナンバーだ。
Belle」ではジプシー娘、エスメラルダへの許されぬ恋に身を焦がす、ノートルダムの鐘つき男クァジモド、大司教フロロ、近衛兵フィーバスの独白が交錯する。浮揚しかけてはためらうように下がるメロディが、3人の悶々とした心模様を描きだす。フランスでシングルカットされた際には33週にわたってチャート1位となった。
2幕のハイライト「Live for the One I Love」。無実の罪で捕えられたエスメラルダは脱獄し、月を見ながら「愛のために生きたい」と儚い夢、生への執着を切々と歌い上げる。じっくりと時間をかけて上下するメロディは、英語版サントラで歌っているセリーヌ・ディオンのように、繊細な表現力とパワフルな声を併せ持つ歌手が歌ってこそ生きてくる。
このように、階段を上下するようなメロディを多用したコッシアンテの楽曲は、言葉、声を乗せやすく歌い手がいかようにも膨らませることが出来、作品のダイナミズムに大いに貢献している。今回の来日キャストもそれぞれに個性的だが、特にフロロ役のロバート・マリアンが出色だ。フランスやカナダ、英米など数か国で『レ・ミゼラブル』に主演した「ジャン・バルジャン」役者の彼は、「正義」を体現するかのような堂々たる体躯。線が細く、いかにも「悪役」然としていたパリ・ロンドン版の役者とは対照的な彼が参加したことで、今回の舞台では、単に「性欲に目覚めた宗教者の暴走」ではなく、厳格な旧世界の秩序に忠実に生きてきた人間が新時代の到来を知り、秩序崩壊の予感におののき、その象徴として出現したエスメラルダに極端な感情を持つ経緯が浮き彫りにされている。2幕はじめに詩人クロパンとルネッサンス、大航海と外界で起こっている事柄について語り合う「Talk to me about Florence」では、フロロのそうした苦悩が鮮やかに照らし出され、時代の変わり目にその波に乗り切れない人間の悲しさが滲みもする。この人の歌を聴くだけでも、今回の公演を観る価値はある。
もちろんそのほかの歌手、とりわけ粘っこい歌唱のエスメラルダ役アレサンドラ・フェラーリも持ち味を発揮しているし、ダンサーたちのエネルギッシュなダンスは名もなき、被差別の憂き目にあってきたジプシーたちの生への情熱を余すことなく表現している。別々に存在するように見えたダンサーたちと歌手たちが後半の脱獄シーンで一気に一体化し、エスメラルダの亡きがらを抱きながら「私のために踊ってくれ」と絶唱するクァジモドの願いを聞き入れるかのように、彼女の魂に見立てて後方に横たわる女性ダンサーたちがふわりと宙に浮き、たかだかと昇天してゆくカタルシスに満ちた幕切れは、この「分業」式演出の有効性を雄弁に語っている。

まずブックがあり、音楽があり、歌もダンスもこなす役者がいて…という、これまでのミュージカル形式からすれば「非・主流」と呼ばれるかもしれないが、それでも『ノートルダム・ド・パリ』には抗うことのできない魅力があり、ミュージカルの新たな可能性を呈示してもいる。
今回、日本でその全貌をあらわしたことで、今後ソロコンサートで本作のナンバーを歌うミュージカル俳優が増える予感…、そして改めて翻訳上演を待望するファン急増の予感、大である。

2013年1月1日火曜日

Theatre Essay観劇雑感「2012年、(個人的に)この3本」

『浮標』田中哲司、松雪泰子(世田谷パブリックシアター)撮影:五十嵐絢也

 2012年もあと15分という時間になって、書洩らしていた舞台があることを思い出した。よりによって、個人的にはベストスリーに挙げたい3本を、である。あと11分ほどしかない2012年をいとおしみながら、駆け足で記そうと思う。

 最も深く「刺さった」のが、929日所見『浮標』(ぶい)(世田谷パブリックシアター)。上演時間4時間という情報にひるんだものの(出産後はなるべく上演時間の短いものを選ぶようになっている)、リリースを読んでどうにも惹かれるものがあり、意を決して出かけた。出かけてよかった。
 昭和の劇作家、三好十郎の実体験にもとづき、第二次大戦直前の不穏な時代の中で、妻を肺病で失いかけている男の葛藤を描いた物語である。男は妻を海岸で静養させているが、彼女が刻一刻と死に近づいているのは誰の目にも明らかで、男は焦燥感にもだえ、ほんの少しの希望にすがろうとしている。そんな状況などおかまいなしに、財産分与を狙って訪ねてくる親族たち。浜辺で恋愛観を語る、若い男女。彼らが「生きていればこそ」の人間の姿を見せる一方で、死を覚悟し、そのことを語りに来る出征前の友人も登場する。これら周囲の人々との交流を織り交ぜ、「生と死」をどうとらえるべきか、舞台はひたすら問いかけてくる。様々な人生観が交錯し、主人公自身、途中で考えが変わりもする。そのなかで、見ていてすっと体に入ってくるのが、主人公夫婦を何かと世話してくれる近所の「小母さん」の台詞である。「妻」を看病しながら、彼女を勇気づけるためでもあろうが、彼女はいつものお喋りの延長のように、自分は死は怖くないのだと言う。自分には子どもはいないが、よその子どもたちに自分の命は繋がれていると思える、と。そして、彼女は自分の核となっているのが、母の記憶であると語る。母は自分を大事にしてくれた。間違いないことを教えてくれた。そんな記憶が、自分を今も支えているのだ、と。…インテリの主人公たちが戦争や神の存在について悩むのをよそに、学のない小母ちゃんは感じるままを、愛情と確信をもって語るが、そのシンプルさゆえに、彼女の説は胸を打つ。演じる佐藤直子の朗らかさもほどよい。もちろん、ほぼ出ずっぱり、しゃべりっぱなしの主人公を、声を嗄らしながらもなお振り絞って演じる田中哲司、命の炎の消えかかった妻を終始横たわりながら、これほどそれらしく演じられる人がいるだろうかと思わせる松雪泰子らの演技も鮮烈で、4時間はあっという間に過ぎて行く。とんがった舞台の多い長塚圭史の演出作品の中では、直球も直球だけれど、筆者の心には今回の舞台が最も深く刺さってきた。

 いっぽう、芝居と現実がないまざった不思議な状況で感動を与えられたのが、716日所見、七月大歌舞伎澤瀉屋襲名披露公演での『楼門五三桐』。五右衛門を海老蔵、久吉を猿翁が演じた。セリフと言うこともあって役者の勘を取り戻したのか、前月の口上よりも飛躍的に口跡が滑らかになった猿翁にも感銘を受けたが、最後に歌舞伎では異例のカーテンコールがあり、そこで久吉の後見が顔を見せ、お辞儀をした。猿翁の長男で、前月に齢46にして歌舞伎デビューした市川中車である。彼はずっと父、猿翁の手を固く握っていた。そして、その表情は何とも嬉しそうでもあり、感無量のようでもあった。筆者は役者のプライベートについてはあまり興味がないが、それでも報道で多少のことは見聞きしている。中車はどんなにか、どんなにか、この日を待ち焦がれたことだろう。そしてその日を、2千人の人々の前で、連日迎えられる幸せ…。彼の感動は、その多くの観客と共有され、劇場はしばし、えもいわれぬ高揚感に包まれた。こういう現象は、役者が役を演じていても常に本人であり続けるという、歌舞伎という演劇特有のものだろう。芝居本編でない部分での感動とはいかがなものか、という声もあるかもしれないが、こういうおおらかさ曖昧さもまた日本演劇の懐の深さだと思いたい。

 そして、今年一番のウェルメイドな舞台と言えば、31日所見る・ばる『八百屋のお告げ』(座・高円寺)である。今年、朗読劇『鴎外の恋』というスマッシュヒットを放った(と筆者が勝手に思っている)鈴木聡の作で、予言が得意な八百屋に「もうすぐ死ぬ」と告げられた中年おばちゃんの物語。親友二人に、近所の人々やら偶然やってきたセールスマンまで巻き込んで、おばちゃんの「最後の一日?」が慌ただしく進んでゆくが…というドタバタ劇だが、登場人物全員に愛嬌があり、いつの間にか観ているほうも一緒にはらはらドキドキしてしまう。終盤、おばちゃんはいたってさえないおじちゃんの手を握り、「あったかい…」と、生身の人間の素敵さをつぶやく。この台詞にすべてが集約された、人生肯定劇である。この芝居を、「る・ばる」の3人(松金よね子、田岡美也子、岡本麗)のほか井之上隆志、加納幸和ら手練れたちが演じるものだから、緩急自在、面白いのなんの。何の気兼ねもなく、身をゆだねてみることのできる、大人の喜劇であった。

 気が付けば新年は明け、娘が夜泣きを始めてしまった。記事のアップは元旦に持ち越しだ。2013年はどんな舞台に出会えるだろうか。