『浮標』田中哲司、松雪泰子(世田谷パブリックシアター)撮影:五十嵐絢也 |
2012年もあと15分という時間になって、書洩らしていた舞台があることを思い出した。よりによって、個人的にはベストスリーに挙げたい3本を、である。あと11分ほどしかない2012年をいとおしみながら、駆け足で記そうと思う。
最も深く「刺さった」のが、9月29日所見『浮標』(ぶい)(世田谷パブリックシアター)。上演時間4時間という情報にひるんだものの(出産後はなるべく上演時間の短いものを選ぶようになっている)、リリースを読んでどうにも惹かれるものがあり、意を決して出かけた。出かけてよかった。
昭和の劇作家、三好十郎の実体験にもとづき、第二次大戦直前の不穏な時代の中で、妻を肺病で失いかけている男の葛藤を描いた物語である。男は妻を海岸で静養させているが、彼女が刻一刻と死に近づいているのは誰の目にも明らかで、男は焦燥感にもだえ、ほんの少しの希望にすがろうとしている。そんな状況などおかまいなしに、財産分与を狙って訪ねてくる親族たち。浜辺で恋愛観を語る、若い男女。彼らが「生きていればこそ」の人間の姿を見せる一方で、死を覚悟し、そのことを語りに来る出征前の友人も登場する。これら周囲の人々との交流を織り交ぜ、「生と死」をどうとらえるべきか、舞台はひたすら問いかけてくる。様々な人生観が交錯し、主人公自身、途中で考えが変わりもする。そのなかで、見ていてすっと体に入ってくるのが、主人公夫婦を何かと世話してくれる近所の「小母さん」の台詞である。「妻」を看病しながら、彼女を勇気づけるためでもあろうが、彼女はいつものお喋りの延長のように、自分は死は怖くないのだと言う。自分には子どもはいないが、よその子どもたちに自分の命は繋がれていると思える、と。そして、彼女は自分の核となっているのが、母の記憶であると語る。母は自分を大事にしてくれた。間違いないことを教えてくれた。そんな記憶が、自分を今も支えているのだ、と。…インテリの主人公たちが戦争や神の存在について悩むのをよそに、学のない小母ちゃんは感じるままを、愛情と確信をもって語るが、そのシンプルさゆえに、彼女の説は胸を打つ。演じる佐藤直子の朗らかさもほどよい。もちろん、ほぼ出ずっぱり、しゃべりっぱなしの主人公を、声を嗄らしながらもなお振り絞って演じる田中哲司、命の炎の消えかかった妻を終始横たわりながら、これほどそれらしく演じられる人がいるだろうかと思わせる松雪泰子らの演技も鮮烈で、4時間はあっという間に過ぎて行く。とんがった舞台の多い長塚圭史の演出作品の中では、直球も直球だけれど、筆者の心には今回の舞台が最も深く刺さってきた。
昭和の劇作家、三好十郎の実体験にもとづき、第二次大戦直前の不穏な時代の中で、妻を肺病で失いかけている男の葛藤を描いた物語である。男は妻を海岸で静養させているが、彼女が刻一刻と死に近づいているのは誰の目にも明らかで、男は焦燥感にもだえ、ほんの少しの希望にすがろうとしている。そんな状況などおかまいなしに、財産分与を狙って訪ねてくる親族たち。浜辺で恋愛観を語る、若い男女。彼らが「生きていればこそ」の人間の姿を見せる一方で、死を覚悟し、そのことを語りに来る出征前の友人も登場する。これら周囲の人々との交流を織り交ぜ、「生と死」をどうとらえるべきか、舞台はひたすら問いかけてくる。様々な人生観が交錯し、主人公自身、途中で考えが変わりもする。そのなかで、見ていてすっと体に入ってくるのが、主人公夫婦を何かと世話してくれる近所の「小母さん」の台詞である。「妻」を看病しながら、彼女を勇気づけるためでもあろうが、彼女はいつものお喋りの延長のように、自分は死は怖くないのだと言う。自分には子どもはいないが、よその子どもたちに自分の命は繋がれていると思える、と。そして、彼女は自分の核となっているのが、母の記憶であると語る。母は自分を大事にしてくれた。間違いないことを教えてくれた。そんな記憶が、自分を今も支えているのだ、と。…インテリの主人公たちが戦争や神の存在について悩むのをよそに、学のない小母ちゃんは感じるままを、愛情と確信をもって語るが、そのシンプルさゆえに、彼女の説は胸を打つ。演じる佐藤直子の朗らかさもほどよい。もちろん、ほぼ出ずっぱり、しゃべりっぱなしの主人公を、声を嗄らしながらもなお振り絞って演じる田中哲司、命の炎の消えかかった妻を終始横たわりながら、これほどそれらしく演じられる人がいるだろうかと思わせる松雪泰子らの演技も鮮烈で、4時間はあっという間に過ぎて行く。とんがった舞台の多い長塚圭史の演出作品の中では、直球も直球だけれど、筆者の心には今回の舞台が最も深く刺さってきた。
いっぽう、芝居と現実がないまざった不思議な状況で感動を与えられたのが、7月16日所見、七月大歌舞伎澤瀉屋襲名披露公演での『楼門五三桐』。五右衛門を海老蔵、久吉を猿翁が演じた。セリフと言うこともあって役者の勘を取り戻したのか、前月の口上よりも飛躍的に口跡が滑らかになった猿翁にも感銘を受けたが、最後に歌舞伎では異例のカーテンコールがあり、そこで久吉の後見が顔を見せ、お辞儀をした。猿翁の長男で、前月に齢46にして歌舞伎デビューした市川中車である。彼はずっと父、猿翁の手を固く握っていた。そして、その表情は何とも嬉しそうでもあり、感無量のようでもあった。筆者は役者のプライベートについてはあまり興味がないが、それでも報道で多少のことは見聞きしている。中車はどんなにか、どんなにか、この日を待ち焦がれたことだろう。そしてその日を、2千人の人々の前で、連日迎えられる幸せ…。彼の感動は、その多くの観客と共有され、劇場はしばし、えもいわれぬ高揚感に包まれた。こういう現象は、役者が役を演じていても常に本人であり続けるという、歌舞伎という演劇特有のものだろう。芝居本編でない部分での感動とはいかがなものか、という声もあるかもしれないが、こういうおおらかさ曖昧さもまた日本演劇の懐の深さだと思いたい。
そして、今年一番のウェルメイドな舞台と言えば、3月1日所見る・ばる『八百屋のお告げ』(座・高円寺)である。今年、朗読劇『鴎外の恋』というスマッシュヒットを放った(と筆者が勝手に思っている)鈴木聡の作で、予言が得意な八百屋に「もうすぐ死ぬ」と告げられた中年おばちゃんの物語。親友二人に、近所の人々やら偶然やってきたセールスマンまで巻き込んで、おばちゃんの「最後の一日?」が慌ただしく進んでゆくが…というドタバタ劇だが、登場人物全員に愛嬌があり、いつの間にか観ているほうも一緒にはらはらドキドキしてしまう。終盤、おばちゃんはいたってさえないおじちゃんの手を握り、「あったかい…」と、生身の人間の素敵さをつぶやく。この台詞にすべてが集約された、人生肯定劇である。この芝居を、「る・ばる」の3人(松金よね子、田岡美也子、岡本麗)のほか井之上隆志、加納幸和ら手練れたちが演じるものだから、緩急自在、面白いのなんの。何の気兼ねもなく、身をゆだねてみることのできる、大人の喜劇であった。
気が付けば新年は明け、娘が夜泣きを始めてしまった。記事のアップは元旦に持ち越しだ。2013年はどんな舞台に出会えるだろうか。