2011年7月1日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「日本の女を誇りに思える新作ミュージカル」(2011.6.16『MITSUKO~愛は国境を越えて~』)

『MITSUKO~愛は国境を越えて~』マテ・カマラス、安蘭けい
(C)村尾昌美
2011.616MITSUKO~愛は国境を越えて~」(青山劇場)
 もし何年かして、現在1歳の娘が物心ついたころ、再演があればぜひ見せてあげたい。女性、それも日本の女性を誇りに思える作品として。
…そう思える新作に、出会った。
宝塚時代からオリジナル、海外もの双方の演出経験が豊富な小池修一郎と、「ジキル&ハイド」などで知られるフランク・ワイルドボーンがタッグを組み、2005年からコンサート形式で少しずつ育て、今回、フルステージ版として発表した「MITSUKO」。明治時代、東京の骨董商の三女に生まれ、オーストリア・ハンガリー代理公使として来日していたハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー侯爵と結婚。異国の地で7人の子を育て上げた、クーデンホーフ・ミツコの生涯がモチーフだ。
舞台は1941年、ミツコの次男で後にEUの父と呼ばれるリヒャルトが、日本人女子留学生に母の物語を語るという形で進行する。
  …父の店を手伝っていたミツコは、友人のシーボルトに連れられてきたハインリッヒと出会い、彼の慈善活動を手伝ううち恋に落ちる。両親の猛反対を押し切って結婚し、ハインリッヒが任務終了に伴って帰国することになると、昭憲皇后に拝謁。「いかなる時も誇り無くさず、大和撫子の魂を世界の人に知らしめよう」との御言葉を胸に渡欧する。長旅の果てに到着したボヘミアの領地は、ミツコが生まれ育った賑やかな都会とは打って変わった田園地帯。のどかだが人と触れ合う機会が少なく、そのいっぽうではハインリッヒの親族たちから差別的な待遇を受ける。貴族の夫にふさわしい伴侶になろうと子育ての傍ら4か国語を学び、ひととおりの教養を身に着けるが、渡欧から10年後、夫は心臓発作で急死。親族が起こした遺産相続訴訟を乗り越え、家長となったミツコは子どもたちの教育のため、一家を引き連れウィーンに移住する。…ここまでが、第一幕。
何という人生、なんという女性だろう。
実際には恋愛結婚ではなく、侯爵に見初められ、多額の金で売られた花嫁だったという説もあるようだが、その後の各局面で彼女が発揮する、強靭な精神力との整合性を図る上では、副題で「愛は国境を越えて」とうたっているように、彼女の原動力の最たるものをハインリッヒとの「純愛」としているのには納得がいく。
同じ女性としては、異国についての知識がまるでない中で外国人と結婚、渡欧、言語や文化を必死に学んだことに感銘を受けるし、同じ母としては、一人でも大変なのに7人もの子を、相談相手のほとんどない環境下で育てあげたことに、どんなにか心細かったろう、産後鬱になったりはしなかったかと思いが巡る。それだのに、プログラムに掲載された実在のミツコの資料写真はつつましやかな微笑が何とも魅力的。美容にも気を配っていたことが見て取れる。「ヨーロッパにおける日本人女性の代表」という気概を、常に持ち続けたことに敬意を覚える。
このパワフルな素材を前にして、小池修一郎の台本とワイルドボーンの音楽は登場人物一人一人の心情を細やか、かつ鮮やかに描き分けている。二村周作による美術も、茶器や「日々是好日」の軸などをあしらった粋な骨董店のセットや、デートの場面でロイド=ウェバーの「Woman in white」的に、スクリーンに背景の動画を映し出す手法でほのぼのとした風情を醸し出すなど、工夫が光る。恋に突っ走る可憐な少女から、精神の強靭な女性へと成長するミツコをのびやかな歌声と確かな演技力で演じる安蘭けい、ウィーン・ミュージカルのスターながら膨大な日本語の台詞・歌詞に果敢に挑み、誠実で懐の深いハインリッヒを描き出すマテ・カマラスはじめ、芸達者な出演者たちもそれぞれ、水を得た魚のよう。すべての要素が有機的に絡みながら、観る者をミツコの世界へと引き込む。このまま、このキャストでブロードウェイやウェストエンドに持って行っても十分、ヒットしそうな完成度だ。(ひょっとして、水面下では既にそういう話もでていたりして?)
ただ、場所はどこであれ再演の機会があるとして、もし可能であれば、一考して欲しい部分がある。
第二幕では、子供たちが成長するも、次女オルガを除いてはみなミツコのもとを去っていき、彼女が孤独のうちに亡くなった経緯が語られる。特に、ミツコが望まない女性と結婚した長男、次男(リヒャルト)とは、絶縁同様だったという。亡くなった夫の分も…と、気を張り、必要以上に厳格にあたってきたため、子たちの心が離れてしまったのだ。親の心、子知らず。「こんなに懸命にやってきたのに、残ったものは『無』」というミツコの絶唱が哀しく、胸を打つ。
その後、亡命前に久しぶりに会いに来た次男を力づける場面で母としての存在感を示してはいるし、ラストシーンでは、国際恋愛に悩む日本人女子留学生を激励するリヒャルトにオーバーラップするかのように、若き日のミツコが再登場、「愛は国境を超える」を歌って終わってはいるのだが、ミツコ自身の心象の表現という点で、もう一曲聴いてみたい、という気がする。
人生は必ずしも思った通りにはいかないし、努力が実るとも限らない。そんな現実とも折り合いをつけ、受け入れてゆくのが人というもの。そして「老い」というものではないだろうか。安蘭けいのミツコは終盤、老婦人そのものの立ち姿にそんな諦観を見事に漂わせていたけれど、これを歌にしてみたらどうだろう。ミツコが自らの来し方を肯定し、すべてを受け入れる。そんなしみじみとしたナンバーを聴いてみたいと思うのだ。史実におけるミツコは虚無感の中で亡くなったとしても、第一幕でミツコの結婚を「恋愛によるもの」としたように、最後に「受容」という境地を与えることで、本作の彼女の一生もより、感慨深いものになるのでは…と思う。
もしも将来、娘と一緒にこの作品を観る機会があったなら…。
細かいことは理解できないかもしれないが、娘なりに、ミツコが「いっしょうけんめいいきた」女性であることは感じられるはずだ。
観終わったら、彼女にこんなことを言い添えよう、と思っている。
「いっしょうけんめい」は報われるとは限らないけれど、大事なのはミツコさんのように、「そのとき、そのときをせいいっぱい、いきること」なのだ、と。

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