2011年9月24日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『血沸き肉躍る神話世界』を描き出すオペラ」(METライブビューイング2011.8.17『タウリスのイフィゲニア』2011.9.17『ラインの黄金』)

『ラインの黄金』 (C)2010 The Metropolitan Opera
 世界最高峰の歌劇場、メトロポリタンオペラの舞台を高音質、高画質で映画館上映する「MET(メット)ライブビューイング」が、今年度のシーズン開幕を目前に、過去5年間のレパートリーからアンコール上映を行っている。
今を時めくスター歌手たちが集うMETの舞台は、音楽的にも非の打ちどころのない完成度のものばかりだが、オペラ界のみならずブロードウェイ、映画界など各分野で活躍する演出家たちが招かれ、創造的、時にセンセーショナルな演出で上演されることでも有名だ。今回のアンコール上映でも、ミュージカル『ライオンキング』で一世を風靡したジュリー・テイモアによる、仮面やパペット使いが楽しい『魔笛』から、現代政治をテーマとしたピーター・セラーズ演出の『ニクソン・イン・チャイナ』まで、その多彩なレパートリーがオペラの底知れぬ奥深さ、可能性を示しているが、その中で、筆者にとっては一つ、嬉しい再発見があった。人類の最古の文学「神話」を伝承する上で、「オペラ」はおそらく今、最もふさわしいメディアなのだと、『タウリスのイフィゲニア』『ラインの黄金』を観て思ったのだ。
『タウリスのイフィゲニア』
(c) Ken Howard/ Metropolitan Opera
ギリシャ、ケルト、北欧、日本…。太古の昔に紡がれた神話は、超人的な力を持ちながらも喜び、愛、怒り、嫉妬といった、人間と同じ感情に突き動かされる神々と、絶対的な運命に懸命に抗い、生きる人間たちが探求し、愛し、戦い、滅びゆくさまを描き、世代から世代へと語り継がれてきた。
装飾をそぎ落としたシンプルな文体によって、それらは人々の想像力をかきたて、畏怖や憧憬の念を持って語られてきたが、20世紀に映画、テレビというヴィジュアルメディアが台頭すると、「神話」の立場は一変する。画面の中ですべてを分かりやすく、具体的に見せるテレビドラマや映画作品のインパクトが、口承文化を凌駕してしまったのだ。
人間はより分かりやすいメディアを楽しみ、代々慣れ親しんだ物語よりも、複雑に描きこまれた新しい物語を好むようになった。神話は物語のメインストリームから押しやられ、様々な芸術の「インスピレーション」だったり「こどもの読み物」という立場に甘んじるようになってしまったが、そんななかで今回のライブビューイングの二作、『タウリスのイフィゲニア』と『ラインの黄金』には、神話本来の「血沸き肉躍る」生々しさ、壮大さが存分に表れていたのである。
『タウリスのイフィゲニア』スーザン・グラハム)、プラシド・ドミンゴ
(c) Ken Howard/ Metropolitan Opera

グルック(1714-1787)作曲の『タウリスのイフィゲニア』は、ギリシャ神話に想を得たエウリピデスの同名悲劇のオペラ化。復讐の連鎖をテーマとした長大な物語の、最終部分にあたる。
ミケナイの王女である主人公イフィゲニアは、かつて父によって女神への生贄とされたが、ひそかに女神に命を救われ、今は遠方の地で巫女として暮らしている。
そこに一人の男が現れ、ミケナイでは娘を生贄とした王を恨んで王妃が王を殺し、それを憎んだ王子が王妃を殺したと語る。
自らの一族が殺し合い、滅びようとしていることを知った王女は悲嘆にくれるが、いっぽうで男も何ごとか思いに囚われ、死を望んでいる。
実は彼は王女の弟で、母親を殺したことで良心の呵責にさいなまれ続けていた…。
終盤、二人は互いが姉弟であることに気づき、そこに現れた女神によって弟の罪が許されて幕が下りるのだが、それまでの2時間近くのほとんどが、二人の「嘆き」で構成。大きくうねるような筋はなく、ひたすら過酷な運命よ、天よ、罪深い私よ…と、魂の叫びが繰り返される。
一歩間違えば単調、せっかちな現代人なら「退屈」と切って捨ててしまいそうなところだが、実際にはかぶりつきの席で観る芝居さながらに、主人公の嘆きは圧倒的な迫力をもって客席を覆い尽くす。立役者は「声」。「オペラの改革者」としてバロック音楽後期に装飾を排し、登場人物の赤裸々な感情表現を可能としたグルックによる楽曲に、イフィゲニア役スーザン・グラハムの声が魂を注ぎ込み、立体化しているのだ。微妙な濃淡を駆使した水墨画のように陰影に富み、厚みのある声で、繰り返される嘆き。そのスケール感はギリシャ神話のそれにふさわしく、人間の声の力、音楽の力と言うものを改めて思い起こさせる。王子役プラシド・ドミンゴも、この日は風邪で本調子ではなかったものの、さすが往年のスター歌手、安定感のある声で王子の鬱々たる心情を歌った。
なお、原作では弟の罪が「これまでの涙で洗い流され」、姉弟が抱き合い歓喜の中で終わるのだが、スティーブン・ワズワースの演出ではイフィゲニアが片手で弟を抱きしめながら、もう片方の手では亡き母のストールを握りしめたまま幕となる。彼女にとって弟は愛する家族だが、同時に母の仇でもある。彼女はこのあと、果たして復讐の連鎖を断ち切ることが出来るのか? 今と言う時代に、9.11同時多発テロの現場でもあったNYでこの作品を上演する意味について、考えさせる演出だ。古代ギリシャの昔から逃れられない苦しみ、悲しみ、憎しみらと、私たち人間は懸命に格闘し続けているのだ。
『ラインの黄金』「指輪」に呪いをかける地下の一族の長、アルベリヒ(エリック・オーウェンス)
(C)2010 The Metropolitan Opera
 一般に、神話は登場人物の「他者との対立」「自身の葛藤」の問題を同時に抱えているが、『タウリスのイフィゲニア』では後者の色が濃いのに比べ、北欧神話とドイツの英雄伝説をベースとしたワーグナーの大作オペラ『ニーベルングの指輪』は圧倒的に前者の物語である。第一部(「序夜」)にあたる『ラインの黄金』では、世界を支配できる黄金の指輪を巡る神々、人間、巨人、地底族の争いの発端が描かれ、舞台は天上から地底、再び天上へと目まぐるしく動き、巨大な蛇が出てきたり神がハンマーをふるって雷を起こしたりと、超常的な表現も多い。なまなかな演出ではワーグナーが渾身の力で書き上げた音楽のスケール感が逆に削がれてしまう、難しい作品なのだが、METが今回、作品を委ねたのはロベール・ルパージュ。映像を効果的に使った幻想的な演劇で知られる彼は、全作を通して、彼が「装置」と名付けた仕組みを考え出した。
 イメージとしては、舞台の後ろ半分を、木琴状に細い板が敷き詰められている。これらの板は一枚、一枚自由に傾斜をつけることができ、持ち上げることもできる。映像を照射することもできる。仕組みとしてはこれだけのことなのだが、開幕早々、観客は度肝を抜かれる。「装置」はカーテンのように吊り上げられ、その前に「ラインの乙女」たち3人がやはり宙釣りになって現れ、歌う。歌声に呼応して「装置」に泡の映像が現れ、観客はそれが川底であることを知る。
 以降、「装置」は段違いに置くことで入り組んだ地形を表したり、先ほどとは異なる吊り上げ方で地底への道のりとなったりと、変化自在に形を変え、作品世界を表現してゆく。後方を持ち上げた傾斜舞台、いわゆる「八百屋舞台」は、劇団四季『ジーザス・クライスト・スーパースター』ジャポネスク版の大八車を使った装置(美術・金森馨)を想わせもするが、90年代にしばしば日本で仕事をしていたルパージュなので、ひょっとするとこの舞台を観て想を得たのかもしれない。METでルパージュが以前、手掛けた『ファウストの劫罰』ではあまりに前面に出ていた映像も、今回は「薬味」的な利かせ方にとどまり、ほどよい。
この創造的な「装置」の中で、歌手たちはその類まれな声量を発揮し、物語のスケールをさらに拡大。神々の長(ブリン・ターフェル)の軽率さ、地底族の長(エリック・オーウェンズ)のふつふつと煮えたぎる憎悪など、キャラクター表現も的確だ。MET音楽監督のジェームズ・レヴァイン自らがタクトを振るオーケストラも、緻密かつ重厚でスリリングこの上ない。3D映画に勝るとも劣らないダイナミックな神話が、ここにはある。
METはこの大作を上演するにあたり、シンプルながら45トンもある「装置」を受け入れるため、大規模な改修工事を行ったという。リーマンショック後、恵まれているとはいえない経済状況のなかでも、彼らは方々から寄付を集め、このプロダクションを実現化した。「オペラを死にかけた芸術にしてはいけない」。以前、インタビューした劇場総裁のピーター・ゲルブが、自らに言い聞かせるように述べた言葉だ。この強い信念のもと、METは一致団結し、いにしえの物語をエキサイティングな舞台として、現代に甦らせた。
 無垢な虹色の照明がかかる橋を渡る神々。悲劇を予兆させるような、美しいその幕切れを思い出すたび、まだ10時間以上あるという本作の続きを、すぐにでも観たくなる。
『ラインの黄金』中央左・神々の長ヴォータン(ブリン・ターフェル)
(C)2010 The Metropolitan Opera
METライブビューイングは11月5日から全国にて2011~2012シーズンを順次上映。『ニーベルングの指輪』第二夜(第三部)《ジークフリート》は11月26~12月2日に上映予定。www.shochiku.co.jp/met/

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