MET『ファウスト』右からポプラフスカヤ、カウフマン、パーペ
(c)Ken Howard /Metropolitan Opera
東銀座の東劇ほかで20日まで、METライブビューイング『ファウスト』(グノー)が上映されている。 「The Who’s TOMMY」などで知られるブロードウェイ・ミュージカルの演出家、デズ・マカナフのMETオペラ初仕事で、ヨナス・カウフマン(ファウスト)、ルネ・パーペ(メフィストフェレス)、マリーナ・ポプラフスカヤ(マルグリット)らが出演。 演出に「原爆」という、日本人にとっては極めてデリケートなモチーフを取り入れ、視覚面ではヒロインの顔の映像を幕に大写しするという、ミュージカル『マルグリット』から拝借したかのような手法を使い、さらには昨年、原発事故後に「ボローニャ歌劇場来日公演」への出演をキャンセルし、日本のオペラファンに複雑な思いを抱かせたカウフマン(ドタキャン組よりはましだが)の主演…という数々のネガティブ要素にもかかわらず、スリリングなことこの上なく、4時間弱のあいだ目が離せない。早くも、今年の鑑賞作品ベストワン候補の登場、である。
学問に人生を捧げてきた博士が青春と引き換えに悪魔に魂を売り渡し、恋愛を謳歌し、皇帝に仕え、ギリシャ神話世界へと旅をする…。 中世に実在したという黒魔術師、ファウストス伝説をもとにゲーテが書いた壮大な物語『ファウスト』のうち、グノーは純朴な娘との恋の顛末を描いた第一部をオペラ化している。導入部分こそファウストの物語ではあるが、このヴァージョンでグノーはファウスト本人よりも、彼との出会いから転落し、最後に救済されるヒロインの描写に力を入れているため、後半はほとんど彼女の物語へとシフト。ファウストの物語としてはいささか物足りなさの残るオペラなのだが、マカナフはこれを、物語全体がファウストの夢であるという「入れ子」形式を取り入れることで解決している。 舞台の設定は中世ではなく、1945年の、とある研究室。背後に原爆ドームが映し出され、黒こげになった人々が通り過ぎる。原爆開発者のファウストは、自らの創造物がもたらした悲劇に呆然としながら「無(rien)…」と歌いだす。この歌詞が見事にはまる。原作では「すべてを学んだつもりでも人間は所詮、すべてを知り尽くすことなどできない」と悟った学者の虚無感から生まれる「無…」なのだが、今回の演出ではより具体的な虚無感による「無…」。力強くも陰鬱さを湛えた声のカウフマン、悪の権化を愉快そうに演じつつ、シリアスなテーマをよく心得たパーペもキャラクターにはまり、見事な「つかみ」であると言える。(マカナフはこの演出プランを、長崎を訪れたことで物理学をやめた学者の夫人に出会った経験から、思いついたのだという)。 ファウストは絶望のあまり服毒自殺を試みるが、目の前に現れた悪魔メフィストフェレスに「何でも望みのものを」ともちかけられ、若返る代わりに死後は悪魔に仕えるという契約書にサインする。(虚無感の原因が「原爆」という深刻なものであるだけに、ここでファウストが連呼する「快楽を!」という歌詞には今回の演出上唯一、唐突感、違和感が残る。) 若返ったファウストは町娘のマルグリットに出会い、その純朴さに「この貧しさの中の(心の)豊かさよ…」と感激する。だが人間は弱いもので、メフィストフェレスに宝石箱を贈るよう勧められると、彼女の美徳にはそぐわないこの贈り物を彼女の部屋に置き、様子を見る。敬虔でつつましい生活を送るマルグリットのほうも、宝石を見つけると「ちょっとだけつけてみよう」と身に着け、しばし浮かれる。以降、物語の主人公は少しずつマルグリットへと移行。その潜在願望を見抜いたメフィストフェレスに操られ、彼女は出会ったばかりのファウストに身を捧げて身ごもり、捨てられる。後ろ指をさされ涙にくれながら耐えるマルグリットだが、戦争から帰還した兄がファウストと決闘し、敗れ、妹を呪いながら息を引き取るに至って絶望。神の助けを求めて教会に駆け込み、必死に祈るが、メフィストフェレスに「お前は祈ってはならない」と遮られ、ついに発狂する。グノーが最初に手掛けたシーンだけあって、この場面の音楽は「入魂」というにふさわしく、ヒロインの「内なる悪」にも見えるメフィストフェレスとマルグリットの対決をダイナミックに盛り上げる。(このシーンで整然と並び、歌っている聖歌隊は、白衣姿。大方の観客が、彼らが冒頭に登場した研究所の同僚たちであることを思い出し、さてはこの物語はメフィストの「夢」であるのか?と薄々気づくことだろう。)そうして曲終わり、マルグリットは生まれたばかりの赤子を溺死させてしまう。たった一人の身寄りとしてこよなく愛した兄に見捨てられ、放心する姿。狂気の薄笑いを浮かべながら、赤子に手をかける表情…。「真面目」と「純朴さ」を声にしたらこうなる、とでもいうような本役にぴったりの声のみならず、全身全霊を捧げて演じるポプラフスカヤが、出色。そしてその細部を逃さずとらえ、的確に映し出すカメラワークも、METライブビューイングならではだ。 一度はメフィストフェレス(=内なる悪)に敗れたマルグリットだが、子殺しの罪で牢に囚われ、明日は処刑という時にファウストが脱走をもちかけると、ついに己を取り戻し、牢の中にとどまる。後方に処刑台が現れ、彼女は迷いのない表情で階段を上ってゆく。(ミュージカル『キャッツ』の終幕を思わせる、「昇天」の表現である)。コーラスはここで「キリストは甦りたもう」と歌い、荘厳な音楽に包まれて終幕…であるところを、マカナフは最後に老博士ファウストを再登場させ、手に持った毒薬をあおぎ、倒れさせる。一度は頭をよぎった「青春」も、目の前の(原爆と言う)現実の重さの前では決して幸福には帰結せず、儚く吹き飛んでしまうことを悟ったかのように…。 通常、本作はキリスト教色を色濃く印象づけることが多いそうで、実際キリスト教信仰に基づいた歌詞も多々登場するが、今回マカナフはなるべくそれが前面に出ないよう意識。その結果、マルグリットとメフィストフェレスの戦いは「信心」対「不信心」ではなく、「道徳」と「不道徳」のせめぎあいとして描かれ、作品もキリスト教信仰の枠を超え、普遍的な一つの問いを呈示することに成功している。 「私たちは今、人類に希望を抱くべきなのか。絶望すべきなのか」。 一夜の娯楽として秀逸ながら、同時にずしりと重い問いを突き付けるオペラでもある。 |
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