「年忘れ喜劇特別公演」ちらしより。画像提供:新橋演舞場 |
大正時代の京都。とある長屋に、腕のいい髪結いのおかつと年下の亭主、清之助が暮らしている。
おかつは清之助の浮気を心配して大工の彼に仕事をさせず、日がなごろごろさせている。その分、自分が生計を立てようとするのだが、清之助が気になって仕事に身が入らない。こんなことでは、と長屋の家主たちが一計を案じ、二人に三か月の別居を提案するのだが…。
昭和38年に藤山寛美、酒井光子主演で初演された、松竹新喜劇の名作『銀のかんざし』。3年前からは寛美の娘、藤山直美と歌舞伎役者、坂東薪車が取り組んでいて、今回、初の東京公演を前に薪車にインタビューする機会があった(『TV Taro』関東版2012年1月号)。門閥外の出身ながら近年大役の機会に恵まれているだけあって、彼の芝居に対する姿勢は謙虚にして貪欲。常に本名の自分が「薪車」という役者を客観視していて、思うような芝居ができない時、努力が足りないと思う時には「そんなことじゃ『薪車』がかわいそうだぞ」と自らを叱咤激励しているのだそう。本作初挑戦の折には、稽古期間が三日しかない歌舞伎界の慣習も手伝って、稽古が始まるまでにがちがちに役を固めて臨んだら、周囲のベテラン勢は台詞も何も覚えていない。稽古の間、互いに相手の芝居を見ながら「そう来たか、それならこちらはこう返そう」と絶えず計算をし、作り上げていくというやり方なのに驚いたのだそうだ。それだのに自分は自分の台詞を言うので精いっぱい。「苦い思い出」だったそうだが、その後回数を重ねるなかで、少しずつ計算ができるようになり、客席の様々な反応も日々、楽しみになってきたそう。「今回はさらに情を深め、思い切り芝居を動かしていきたい」と抱負を語っていたが、さてその成果やいかに。
「年下の男に対する女性の執着」。それが「片思い」ということなら、歌舞伎の『摂州合邦辻』だとかラシーヌの『フェードル』だとか、いくつかの作品が思いつくものの、本作のように「既に夫婦」という前提の芝居となると、あまり聞かない。そんなレアな設定に敢えて踏み込んだ本作は夫婦、特に女の側の心の機微を、舞台ならではの振り幅の大きな表現で見せてゆく。
冒頭、清之助と家主がおかつの噂話をしている。「束縛」型の彼女と暮らす苦労を語る割に、清之助はおかつに命じられた女物の着物姿にも馴染み、のほほんとしている。この清之助はなかなかに人物像の塩梅が難しそうな役で、いかにも主体性のない「ヒモ」な感じでは安っぽくなるし、かといって年上の女の愛情に包まれるのが心地よい風を出さないと、行動に整合性がなくなるのだが、薪車演じる清之助にはまず、柱にもたれたり、おかつに膝枕をしてもらうなど何気ない所作の一つ一つに、清潔な美しさがある。いっぽうでは、これは年上の女性と付き合うほとんどの男性に共通することだが、男として、仕事を持つ身としての「自信」がそこはかとなく漂い、そこがまた年上の女性から見ると可愛らしい。それまで仕事一筋だったおかつにの人生を一変してしまったのにも、納得がゆく人物像だ。
さて、満を持して登場する藤山直美のおかつは、夫の一挙手一投足に目を光らせ、「あんた!」とけん制。観客の期待通りの(?)、絵に描いたような「鬼嫁」なのだが、ふとした瞬間にいそいそと清之助の足を拭いたり、着替えをさせたり酌をしたり…。日常のしぐさの中に、夫がいとおしくて仕方がないという心情が覗く。かわいがっているだけなら「お母さん」だが、そこは夫婦ということで、夫に甘える場面もある。別居を提案された際、「三か月は長い」と拗ねるおかつを、清之助が「しょうがないなあ」と家主たちの目の前にもかかわらずわらべ歌であやしたり、ぎゅっと抱きしめたり…。傍目には幼稚にしか見えないこんな行動も、当人たちにとっては立派な愛情表現、生活の一部。これをテレビのトレンディドラマばりの「自然な演技」で表現してしまうと、芝居が小さく、つまらなく見えてしまうところだが、直美と薪車はくっきり、たっぷりと演じ、バカバカしくも微笑ましい場面を作り上げ、映像のクローズアップ以上の効果をあげる。二人の「お熱い様子」を見せつけられる家主役、小島秀哉も呆れ果て、いたたまれない風情が絶妙で、おかしさを盛り立てる。
それだけに、後半の深刻な展開は思いがけなく、とりわけおかつが気の毒に映る。夫とは三か月限りの別居のつもりで仕事に精進、もとの評判を取り戻して数日後の再会を楽しみにしているおかつの耳に、実は清之助には若い娘との縁談が進んでいるという話が飛び込んでくるのだ。(このことを話さざるをえなくなる女弟子役の二人、森亜利沙、佐久間春夢が思い切りよく、ドリフばりのドタバタで笑わせるが、ここはもうちょっと間を詰めてもいいかもしれない)。親切心からとはいえ、家主たちは最初から彼女を騙し、清之助から引き離したのだった。ここで、たとえばこれが新派の芝居なら、女の側が「彼のため」と涙を流し、美しく身を引くところだろうが、おかつは違う。大酒をくらい、酔った勢いで刃物を手に、清之助の縁談を進めている雇い主のもとへ、直談判に走り出す。(この、憤怒から浴びるように酒を飲み、駆け出すまでの過程もたっぷりとした見せ場で、歌舞伎の『魚屋宗五郎』のパロディのようだが、実際、そんな演出意図があるのかもしれない。)
入れ違いで、雇い主のもとを飛び出した清之助が帰ってくる。もともと気が優しいのか優柔不断なのか、周囲が勝手に進める縁談を断れずにいた彼だが、「このままではあまりにおかつがかわいそう」と気になって戻ってきたのだ。いっぽう、雇い主のもとから自宅へ追い返されたおかつは、すっかり酩酊し、わめきながら寝入ってしまう。出かけた時の勢いと比べるとかなりカッコ悪い有様だが、この「しょうもなさ」に歌舞伎の和事の二枚目に通じる愛嬌があり、いかにも上方の芝居らしい。清之助は、彼が離れてゆかないよう、おかつがひそかに大事な銀のかんざしを使って打っていた藁人形を発見し、ついに腹をくくり、家主に向かっておかつとは別れないと宣言する。「こんなに(藁人形を打たれるほどに)女に惚れられたこと、ありますか?」。それまでは女の母性的な愛に包まれ、心地よさに身を委ねていた男が、女のいじらしいまでの心情を知り、「自分が守らなくては」という心境に転じるのだ。目覚めた女房を今度は彼の方が、大きな愛で包むように抱き寄せる。二人の新たな関係性を予感させながら、幕は下りる。おかつの一途さが報われる結末に、観客としてはほっと一安心、である。
やはり姉さん女房である筆者からすると、おかつの行動は正直、随分と極端なものに映る。最たるものが、藁人形だ。いくら愛に狂ったとは言え、仕事にそれなりの誇りを持って生きてきたであろう女性が、大切な仕事道具でそんなことをするだろうか。だが劇中、周囲の人々もあれこれと「歳の差婚」を揶揄しているし、まだまだ「姉さん女房」自体が少数であった大正時代ならば、おかつのように追い詰められた心境にも、なりうるのかもしれない。それ以上に、「愛の形はいろいろ。周りがとやかく言うことではない」というところに帰着する筋立てに共感できるし、舞台ならでは、基礎をしっかり積んだ役者たちならではの、様式とリアルを自在に行き交う演技を観るのも楽しい。
この日の客層は家主か、それ以上の世代の女性が多かったが、ブラウン管で展開する、「大笑いして、はい次」式のお笑いを見慣れている若い人にも、時にはこういう喜劇はいかが?とお勧めしたい。デフォルメたっぷり、時にはじれったいようなベタな笑いの中に、そこには名もない、けれど愛すべき人々が確かに息づいていて、人の世の哀れと幸せとを、凝縮して見せてくれる。彼らの存在の余韻…じんわりとした温もりを土産に帰途に就くのも、なかなかいいものですよ。
0 件のコメント:
コメントを投稿