「みんな我が子」(左から)麻美れい、長塚京三。写真提供・梅田芸術劇場 |
「いいなあ、この一座」。
そんなふうに、羨ましさを覚える舞台が、たまにある。
例えば「いい舞台」を観れば充実感で気分が高揚するし、「一座が家族のように仲が良さそうな舞台」を観れば嬉しさを覚える。
けれど今回の「みんな我が子」には、「もしも自分もこの一座に身を置いていたら、とびきり刺激的な体験ができたかもしれない」などと、羨望にも似た空想をしてしまった。それほど、クリエイティブな《気》が満ちた舞台だった。
素材である『みんな我が子』は1947年、作者のアーサー・ミラーにトニー賞をもたらした戯曲だが、日本ではそうなじみのある作品ではない。
第二次世界大戦終了後のアメリカ中西部を舞台に、戦中に財をなしたとある一家の「秘密」と、それが暴かれたために起こる悲劇を描く。一つのホームドラマとして始まりながら、後半「社会対個人」「資本主義対理想主義」「アメリカの欺瞞」の物語へと、急激にスケールアップしてゆく鋭い社会批判劇は、初演当時、清濁飲み込んで戦争を生き抜いたアメリカン人たちにとっては、身に覚えがあるとまでは言わなくとも、痛みを感じずには観られない戯曲であっただろう。だが日本の私たちにとっては、いかんせん「アメリカ中西部」「1947年」は私たちには遠く、アメリカ人が当時抱いていた戦後の「気分」も分かりにくい。本作を日本で上演しても、遠い世界の出来事として目の前を流れていってしまう可能性が大きいことが、上演回数が多くない理由なのだと容易に想像がつく。
それにもかかわらず、今回の舞台は前半は淡々とホームドラマを見せ、後半一気にドラマティックに展開、はらはらさせつつ、最後の台詞まで観客をくぎ付けにする。出演者たちが自分の芝居に溺れることなく、作品の全体像、その中での自分の立ち位置を把握し、一つ一つの台詞を発しているので、それぞれの表現が分かりやすい。饒舌な翻訳劇にありがちな、「思いもしない言葉を言わされている」「日本人の習慣にはないけれど台本に書かれているのでこうしている」という瞬間がないのも、いい。これは相当、濃密な稽古を積み重ねていったのだろう…。そう思いながら観ていたら、終演後のアフタートークで、まさにその話題が出ていた。
今回、演出を手掛けたのは新進演出家のダニエル・カトナー、33歳。「オペラ座の怪人」で知られるハロルド・プリンスの一番弟子、ということだが、ブロードウェイではまだ自身の代表作はなく、「新人」と言っていい。アフタートークでは劇中、一家のナイーブな次男役を熱演した田島優成が司会を勤め、カトナーへの全幅の信頼を滲ませながら、彼の言葉を引き出していた。「演出にあたって、あなたが始めに『今日まで3か月間この台本と寝食を共にして準備してきたけれど、僕の描いた像を押し付けるつもりはありません』と言ってくれたのが印象的でした」「演出家の考えだからこう動く、ということはしてほしくないんです。役者さんたちには、自分でリアルに感じながら演じてほしい。芝居を絵画に例えると、稽古前に輪郭を描いておくのが僕の役目。色彩は稽古が始まってから入れてゆきます」「ハロルド・プリンスさんからはどんなことを学ばれたんですか?」「準備の大切さですね。演出する戯曲をいただいたら、すべての方向から研究します。今回で言えば、第二次世界大戦、アメリカ中西部、登場人物の職業、軍隊などについて、リサーチを積み重ねました。役者さんに質問されて、答えられないことがあってはまずいですから(笑)」。他の仕事同様、演出は一つの「職業」なので…というコメントからも、この人の生真面目さ、勤勉さが覗く。といっても真面目一本やりというわけでもなく、最期には田島に促される形で、出演者の物まねを披露していた。
この演出家のもと、一座は熱い議論を交わしながら、緻密に芝居を組み立てて行ったのだという。プログラムの中でも、一家の大黒柱を演じた長塚京三は「一緒に勉強しているようで、学生劇団みたい。この感じ、好きなんだ」、その妻を演じた麻美れいも「(カトナーは)決してあきらめないし、物作りに対する姿勢が前向きで、いい」と語っていて、田島のみならず全員が迷いなくカトナーに身を委ね、丁寧に稽古を重ねていったらしい。(どんなにか、熱気あふれる現場だったろう!) その結果、舞台はストーリーテリングに終始せず、出演者の一人ひとりが光を放ち、好感を抱かせる。「たたき上げの成金・工場経営者」役は長塚には本来、不似合な役のはずだが、「子どもには自分以上の生活をさせたいと願う親世代への鎮魂歌という意味を持たせたい」「(難解な作品を苦しみながらも楽しむという)、『品の良さ』がこの作品にはある」という意識を持って演じたそうで、役に彼ならではの知性を加え、終盤、どうにも自身を正当化することができず、破滅してゆく過程の悲劇味を倍増させた。麻美れいも、これまで演じた『オイディプス王』や『双頭の鷲』の王女など浮世離れした役の印象が強く、アメリカの地方の一主婦役というのが最初は不思議に感じられただが、芝居の全体像が見えるにつれ、この舞台には彼女が持つスケール感が必要だったのだと納得。芝居を締める最後の台詞も、麻美が発することで「絶望の果ての希望」を含ませ、印象深いものにしていた。次男の恋人で、家長を追い詰めることになる真実を知らせる娘役は、自分の恋のためなら他がどうなってもいいという女心がいやらしく見えるリスクのある役だが、可憐でさっぱりとした持ち味の朝海ひかるが演じると、一途な娘の健気な行動に見える。その兄で、舞台後半をかき回し、不意に去ってゆく青年役の柄本佑も、一家に対しての怒りだけでなく、次男に対するコンプレックスを秘めているようで、去った後も余韻を残す。隆大介演じる、夢をあきらめきれない医師と、山下容莉枝演じる、夫を現実に向き合わせようと必死のその妻、加治将樹、浜崎茜演じる、ブルーカラーながら子宝に恵まれ幸福そうなカップルといった、一家の隣人たちの存在にもリアリティがあり、「遠い物語」を現代日本の観客に引き寄せていた。
ところで、本作のタイトルは『All My Sons』だが、邦題は『みんな我が子』。どこかで聞いたようなフレーズだ。作品解説には、旧約聖書がインスピレーションとあったが、もっと身近に聞いているような気もしないでもない。
…と考えていて、ふと思い出した。なんのことはない、筆者が参加している子育てママサークルでの、合言葉だ。サークル活動では、子ども同伴。まだしつけも始まらない乳児たちは、ママの目を盗んで(?)は他の赤ちゃんのおもちゃで遊んだり、ママたちの荷物を逆さまにしたり、体の上に乗ってきたりと、予測不可能の行動をする。けれど何があっても「みんな我が子」の精神で、お互いおおらかに接し、慈しみあおう、とサークルでは言い合っている。
劇中でも、この「みんな我が子」というフレーズは、「重さ」の違いはあれ、こうした「人類愛」を訴えるものとして言及されていた。自分、自分の家族だけ良ければいいという考えでは、人は生きては行けない。命あるもの皆、慈しみあってこそ、人の世は成立するのである。
もしかしたらこの、日本では馴染のない社会批判劇を今、ここで上演することになった意図も、こういうところにあったのかもしれない。
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