2011年8月7日日曜日

Today's Report [Hotel] 「英国の美しい田舎」にふさわしい旅籠

2011.7.13 「ザ・ラム・イン」(英国バーフォード) The Lamb Inn, Burford, UK
子羊のサインが愛らしいザ・ラム・イン。一室1泊朝食込155ポンド~。
The Lamb Inn, Sheep Street, Burford. http://www.cotswold-inns-hotels.co.uk/property/the_lamb_inn/staying_with_us.htm
(c) Marino Matsushima
 ロンドンから北西へ、鉄道や車で1時間半。
 ストラットフォード・アポン・エイボン、バース、オックスフォードの3点を結んだ内側に、コッツウォルズという丘陵地帯がある。
 都会から至近でありながら、東京都ほどの大きさのこのエリアには、なだらかな緑の丘に森や小川、そしてコッツウォルズ・ストーンという蜂蜜色の石の家々が点在、「美しい田園風景」と呼ぶに足る風景が広がっている。古代から農業、そして中世には羊毛で栄え、今も当時の面影がそのまま残るスポットも多い。
既に日本人をはじめ、世界各地からこの地をめざして英国を訪れるツーリストも少なくないが、パッケージツアーでは大型バスの駐車場やトイレなどの事情から、バートン・オン・ザ・ウォーターなど特定のスポットばかり巡りがち。しかし現地の人々は、コッツウォルズの本当の魅力を知るにはぜひ、ウォーキングやサイクリングを楽しみながら、小さな村や町を一つ、また一つと訪れて欲しい、と口をそろえる。今回訪れた「ザ・ラム・イン」はそんな「のんびり型」旅行の拠点にも便利な、コッツウォルズ南側のゲートタウン、バーフォード(Burford)の老舗宿だ。

多くのコッツウォルズの「町」同様、バーフォードも中世に羊毛の取引で栄えたマーケット・タウンである。メインストリートである急な坂道を少し下り、「シープ・ストリート(羊通り)」で左に折れると、ほどなく右手に愛らしい仔羊のサインが現れ、風格のある外壁とこぢんまりとしたたたずまいが「旅籠(はたご)」と呼ぶのにふさわしい、「ザ・ラム・イン」へとたどり着く。もとは織物職人のコテージとして1420年に建てられ、1720年に宿屋となったという。
車を停めて中に入る。
どうやらメインでない扉を選んでしまったらしい。廊下が何方向かに分かれ、それぞれに内扉がある。増築を繰り返した古い宿にありがちな構造だと思いつつ、レセプションを探していると、背の高いウェイターが「迷いましたか?」と話しかけてきた。レセプションまで案内してくれた彼、長旅で疲れていると察して「夕ご飯はどうします?簡単なサンドイッチでも届けましょうか?」と心配してくれたレセプショニストと、スタッフの気さくさが第一印象として残る。
こぢんまりとしたダブルルーム、Tannery。宿の名入りのテディベアがお出迎え。
(c) Marino Matsushima
案内されたダブルルームには、ベビー連れであることを告げておいたため、ベビーベッドも置かれていた(木製のものではなく、金属支柱にメッシュ布を張り巡らした、「プレイヤード」タイプ)。スーツケース大小三つを運び込むとほとんど足の踏み場は無く、ビジネスホテルなら単純に「狭い」と感じるところだが、ここでは逆に「旅籠らしさ」のように感じられ、不快感はない。老舗宿といっても改装はここ10年以内らしく、インテリアはカントリーモダンにまとめられている。英国では時折見かけるが、ここでもベッドの上に宿の名(Lamb Inn)をつけたテディベアがいて、心和ませる(この子たちは気に入れば購入も可能、という仕組み。)。ホスピタリティ・トレイ(紅茶やコーヒーを自分で入れるコーナー)にはトワイニングのティーバッグ、コッツウォルズ銘柄のコーヒーやホットチョコレートがぎっしりと詰め込まれ、大ぶりのクッキーも添えられていて、マナーハウス・ホテル並みの豪華さ。見渡す限り清掃も行き届いていて、備品の並びもきっちりしているのが気持ちいい。 
ベッドルームの大きさからすると、バスルームにはシャワーのみで浴槽はないかしら、と思いながら扉を開けると、ベッドルームの半分以上の広さのある、たっぷりした浴槽付きのバスルームが現れた。ついてさえいれば、こちらの浴槽は英国人サイズでかなりの長さがあるため、日本人ならゆっくりと足を伸ばせ、有難い。アメニティは英国の一流ブランド、モルトン・ブラウン。かつてはある程度のクラスの宿ではアメニティはミニボトルで置かれていて、それを土産に持ち帰るのも旅の楽しみの一つだったが、最近では「エコ」的観点から大きなボトルを置き、ゲストが使った分だけ補充する傾向がある。ここもそのスタイルをとっていて、「お気に召したら大きなボトルは受付で購入可能です」とある。「Yuzu(ゆず)」とうたったシャワージェルが柔らかく、よい香りだ。
翌朝、かすかな小鳥のさえずりとともに目が覚める。バスルームの小窓をあけるとひんやりと澄んだ空気が流れ込み、英国に来たことを実感する。朝食の始まる7時半に家族で1階奥のダイニングへと降りてゆくと、先客が一名。ビジネスマンらしき男性が紅茶をすすっている。昨晩のウェイターがまた笑顔で歩み寄って来た。「お好きなテーブルへどうぞ。赤ちゃんのハイチェアー、お持ちしますね」。
テラスをのぞむ窓辺に美しくセットされたビュッフェ。
(c) Marino Matsushima
「一日三食、朝食でもいい」という説もあるほど、英国では朝食を重視し、宿でもそれぞれに趣向を凝らしているが、その実力のほどはビュッフェテーブルを見ればおおよそ察しがつく。好奇心いっぱいのベビーの手があちこちに伸びないよう気をつけて抱っこしながらここのビュッフェを覗くと、まずはそのプレゼンテーションの美しさに唸らされる。英国のおしゃれな食料品店には専属のスタイリストがいて野菜を小粋に並べたりするけれど、ここでもシリアルやジャム、ヨーグルトにフルーツなどが、陶磁器や籠などバラエティに富んだ容器で立体的に並べられている。深い紫、緑などシックな色合いの箱が目を引くドーセット・シリアルズは、パッケージありきで選ばれたのだろうか? パンやジャムなども設計図のとおりよろしく並んでいて、そこから自分の分を取ってしまうのが申し訳なく思える。
 …が、食欲に負けてあちこちから少しずつを取り、席につく。まずは絞りたてのオレンジジュース。新鮮さが体に染み渡る。ドライフルーツ入りのシリアル、チョコレート・デニッシュもいい味だ。蜂の巣をそのままきれいにカットした蜂蜜を贅沢につけ、イギリスらしい薄いトーストをいただく。
ウェイターが「温かいおかずもいかがですか?」というので、オムレツを注文。そう待たされることなく、大皿に盛られた、巨大なオムレツが運ばれてきた。卵3個分ほどだろうか。ナイフを入れると、マッシュルームやトマト、ハムなどがごろんごろん、大きな固まりで入っている。これに関してはプレゼンテーションは「美」というより「豪快」だが、口に入れると、トマトの酸味とジューシーな舌触りが他の具材ともあいまって、ほろほろと美味しい。適度な塩気があるので、ケチャップは不要だ。出て来たときには「巨大」と思われたが、ぺろりとたいらげ…そうになり、残り三分の一ほどで夫の燻製ニシンと交換する。こちらは大ぶりのニシンではあるが、オムレツよりは小さく、レモンを添えていたって上品なプレゼンテーション。味も癖のない、食べやすい燻製になっている。夫も、オムレツを「美味しい」と、あっという間に食べ終える。
 舌鼓を打っていると、30代半ばだろうか、ぱりっとしたワイシャツ姿の男性が近づいてきた。
「お味は大丈夫ですか?」
そんな。「大丈夫」どころではありませんよ。
「良かった。いえ、何かご不自由はないかと思って、ご滞在の皆さまにあいさつがてら、確認させていただいているんです。何かあれば、受付におりますからいつでも声をかけてくださいね」。
宿のマネージャーなのだろう。過度でもマニュアル通りでもない、自然な気遣いが爽やかだ。こういうボスがいてこそ、他のスタッフも感じのいい接客が出来るのだろう。英国では、建物は素晴らしいけれどスタッフの教育が今一つ、というところも時折あるが、ここはそういう宿ではないようだ。
 部屋に戻ると、ベビーベッドが心地良かったのか、ベビーはテディベアと一緒に早めのお昼寝。チェックアウト時間は11時と遅めなので、目覚めたベビーをゆっくりお風呂に入れる時間もあった。
11時ぎりぎりに荷物を持ってレセプションへ降りると、スタッフは出払っている。すぐに戻るだろうと大ぶりのソファに腰を掛けると、深々と体が沈み込んだ。館内全体がモダンに手入れされているなか、床だけは「昔の姿」を残していて、数百年の間に何千、何万…いや、恐らくはさらに多くの人々に踏みならされてきた石床が、窓から差し込む光を鈍く反射している。
レセプショニストがふらりと戻ってきた。鍵を返し、荷物と車を預けると、数軒先のインフォメーション・センターで地図をもらい、町の散策に出かける。
なだらかな丘陵地を見下ろすバーフォードの目抜き通り。
(c) Marino Matsushima
気を許すところころ転がって行ってしまいそうなので、ベビーカーのアームを握る手に力を込めつつ、ゆっくりと坂道を下る。左手には、1500年頃から商人たちの税務署、マーケット会場として使われた建物。今でも軒先はいろいろな用途に貸し出されているそうで、この日はアンティーク…と呼ぶには半端な使い古しのテーブルウェアや、古書、手作りアクセサリーの店が出ている。右手には、この町唯一だという赤レンガの家。ということは、他はすべてコッツウォルド・ストーンの建物ということか。
坂の下で右折すると、たちまち車や人の気配が失せ、静けさに包まれた。16世紀創立のグラマースクール、15世紀設立の救貧院のある小路の奥に、教会の高い尖塔。1160年から300年以上をかけて建てられたという聖ヨハネ教会だ。長年の風雨にさらされてきた外壁はところどころ剥げ落ち、黒ずんでもいるが、それがまた味わい深い。中に入ると、後方にモダンな多目的スペースが設けられ、日曜の子どもサークルで使われたらしい工作の道具がそのままになっていて、作品の写真が模造紙に誇らしげに貼られている。人口1000人の町では、こういう場が重要な役割をはたしているのだろう。近々、増築をするということで、コンテンポラリーな完成予想図パネルが置かれていた。再び外に出ると、教会をぐるりと囲む墓石の数々。19世紀のものが多く、27歳で亡くなった「…の第一夫人」、7歳で亡くなった「…の愛した子」など、夭折したらしい人々の墓が目につく。さわさわと風が吹き、墓石の前に植えられたラベンダーから夏の薫りが立ちのぼった。
坂道の反対側に渡り、今度はゆっくりと登ってゆく。途中、小さなスーパーを見かけて昼食用のパンやチョリソ、飲み物を購入。「ザ・ラム・イン」に戻って荷物をピックアップし、バーフォードに別れを告げた。次の目的地はここからほど近いという古代遺跡、ロールライト・ストーンサークルである。

2011年7月1日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「日本の女を誇りに思える新作ミュージカル」(2011.6.16『MITSUKO~愛は国境を越えて~』)

『MITSUKO~愛は国境を越えて~』マテ・カマラス、安蘭けい
(C)村尾昌美
2011.616MITSUKO~愛は国境を越えて~」(青山劇場)
 もし何年かして、現在1歳の娘が物心ついたころ、再演があればぜひ見せてあげたい。女性、それも日本の女性を誇りに思える作品として。
…そう思える新作に、出会った。
宝塚時代からオリジナル、海外もの双方の演出経験が豊富な小池修一郎と、「ジキル&ハイド」などで知られるフランク・ワイルドボーンがタッグを組み、2005年からコンサート形式で少しずつ育て、今回、フルステージ版として発表した「MITSUKO」。明治時代、東京の骨董商の三女に生まれ、オーストリア・ハンガリー代理公使として来日していたハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー侯爵と結婚。異国の地で7人の子を育て上げた、クーデンホーフ・ミツコの生涯がモチーフだ。
舞台は1941年、ミツコの次男で後にEUの父と呼ばれるリヒャルトが、日本人女子留学生に母の物語を語るという形で進行する。
  …父の店を手伝っていたミツコは、友人のシーボルトに連れられてきたハインリッヒと出会い、彼の慈善活動を手伝ううち恋に落ちる。両親の猛反対を押し切って結婚し、ハインリッヒが任務終了に伴って帰国することになると、昭憲皇后に拝謁。「いかなる時も誇り無くさず、大和撫子の魂を世界の人に知らしめよう」との御言葉を胸に渡欧する。長旅の果てに到着したボヘミアの領地は、ミツコが生まれ育った賑やかな都会とは打って変わった田園地帯。のどかだが人と触れ合う機会が少なく、そのいっぽうではハインリッヒの親族たちから差別的な待遇を受ける。貴族の夫にふさわしい伴侶になろうと子育ての傍ら4か国語を学び、ひととおりの教養を身に着けるが、渡欧から10年後、夫は心臓発作で急死。親族が起こした遺産相続訴訟を乗り越え、家長となったミツコは子どもたちの教育のため、一家を引き連れウィーンに移住する。…ここまでが、第一幕。
何という人生、なんという女性だろう。
実際には恋愛結婚ではなく、侯爵に見初められ、多額の金で売られた花嫁だったという説もあるようだが、その後の各局面で彼女が発揮する、強靭な精神力との整合性を図る上では、副題で「愛は国境を越えて」とうたっているように、彼女の原動力の最たるものをハインリッヒとの「純愛」としているのには納得がいく。
同じ女性としては、異国についての知識がまるでない中で外国人と結婚、渡欧、言語や文化を必死に学んだことに感銘を受けるし、同じ母としては、一人でも大変なのに7人もの子を、相談相手のほとんどない環境下で育てあげたことに、どんなにか心細かったろう、産後鬱になったりはしなかったかと思いが巡る。それだのに、プログラムに掲載された実在のミツコの資料写真はつつましやかな微笑が何とも魅力的。美容にも気を配っていたことが見て取れる。「ヨーロッパにおける日本人女性の代表」という気概を、常に持ち続けたことに敬意を覚える。
このパワフルな素材を前にして、小池修一郎の台本とワイルドボーンの音楽は登場人物一人一人の心情を細やか、かつ鮮やかに描き分けている。二村周作による美術も、茶器や「日々是好日」の軸などをあしらった粋な骨董店のセットや、デートの場面でロイド=ウェバーの「Woman in white」的に、スクリーンに背景の動画を映し出す手法でほのぼのとした風情を醸し出すなど、工夫が光る。恋に突っ走る可憐な少女から、精神の強靭な女性へと成長するミツコをのびやかな歌声と確かな演技力で演じる安蘭けい、ウィーン・ミュージカルのスターながら膨大な日本語の台詞・歌詞に果敢に挑み、誠実で懐の深いハインリッヒを描き出すマテ・カマラスはじめ、芸達者な出演者たちもそれぞれ、水を得た魚のよう。すべての要素が有機的に絡みながら、観る者をミツコの世界へと引き込む。このまま、このキャストでブロードウェイやウェストエンドに持って行っても十分、ヒットしそうな完成度だ。(ひょっとして、水面下では既にそういう話もでていたりして?)
ただ、場所はどこであれ再演の機会があるとして、もし可能であれば、一考して欲しい部分がある。
第二幕では、子供たちが成長するも、次女オルガを除いてはみなミツコのもとを去っていき、彼女が孤独のうちに亡くなった経緯が語られる。特に、ミツコが望まない女性と結婚した長男、次男(リヒャルト)とは、絶縁同様だったという。亡くなった夫の分も…と、気を張り、必要以上に厳格にあたってきたため、子たちの心が離れてしまったのだ。親の心、子知らず。「こんなに懸命にやってきたのに、残ったものは『無』」というミツコの絶唱が哀しく、胸を打つ。
その後、亡命前に久しぶりに会いに来た次男を力づける場面で母としての存在感を示してはいるし、ラストシーンでは、国際恋愛に悩む日本人女子留学生を激励するリヒャルトにオーバーラップするかのように、若き日のミツコが再登場、「愛は国境を超える」を歌って終わってはいるのだが、ミツコ自身の心象の表現という点で、もう一曲聴いてみたい、という気がする。
人生は必ずしも思った通りにはいかないし、努力が実るとも限らない。そんな現実とも折り合いをつけ、受け入れてゆくのが人というもの。そして「老い」というものではないだろうか。安蘭けいのミツコは終盤、老婦人そのものの立ち姿にそんな諦観を見事に漂わせていたけれど、これを歌にしてみたらどうだろう。ミツコが自らの来し方を肯定し、すべてを受け入れる。そんなしみじみとしたナンバーを聴いてみたいと思うのだ。史実におけるミツコは虚無感の中で亡くなったとしても、第一幕でミツコの結婚を「恋愛によるもの」としたように、最後に「受容」という境地を与えることで、本作の彼女の一生もより、感慨深いものになるのでは…と思う。
もしも将来、娘と一緒にこの作品を観る機会があったなら…。
細かいことは理解できないかもしれないが、娘なりに、ミツコが「いっしょうけんめいいきた」女性であることは感じられるはずだ。
観終わったら、彼女にこんなことを言い添えよう、と思っている。
「いっしょうけんめい」は報われるとは限らないけれど、大事なのはミツコさんのように、「そのとき、そのときをせいいっぱい、いきること」なのだ、と。

2011年6月21日火曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「久々に見た、スター」(2011.6.6 『氷川きよし特別公演』)



2011.6.6「氷川きよし特別公演」(明治座)
 久々に、いわゆる「座長公演」を観た。演歌歌手が主演するお芝居に、歌謡ショーがつく、というお約束のプログラムだ。
 今回のお芝居は「銭形平次~きよしの平次 青春編~」。長谷川一夫の映画版、大川橋蔵のテレビ版などでよく知られた捕り物帳「銭形平次」の設定を借り、座長・氷川きよしのために堀越真が脚本を書き下ろした。人生の目的を見つけられず、ふらふらしていた18歳の平次が縁あって岡っ引きとなり、消えた三千両探しに奔走するうち、人間的な成長を遂げるという物語である。氷川の持ち味に合わせ、殺人などは排して明るい内容に工夫したという。
氷川は座長公演での芝居は4年ぶりだというが、大空真弓、横内正らそうそうたるベテラン俳優に囲まれても気後れすることなく、たっぷり、堂々と演技。平次の亡き父を知る筆頭与力役で、前進座の瀬川菊之丞が出ていたのには驚いた。(色っぽい二枚目のイメージがあったのだが、今回は落ち着いたさばき役で芸域の広さを見せている)。演出面で欲を言えば、立ち回りシーンではもうちょっと「手」(振付、段取り)を多くしてわくわくさせてほしいのと、場面転換をスピードアップしてもいいのではと感じたが、客層の大半を占めるシルバー世代がゆったり、のんびり観られるようにという配慮だったのかもしれない。
さて、芝居が終わって30分の休憩後、いよいよショータイム。
中央の大階段を挟んで、舞台左右に広がるバンドが賑々しい。オープニングの演奏が始まると、暗かった場内が一瞬にして眩しく転じた。客席を埋め尽くす人々が、お約束の(だったらしい)ペンライトを取り出し、音楽に合わせて振りはじめたのだ。
筆者のいる二階席から階下を見下ろすと、中には両手に1本ずつ持っている人も…いや、3本束にして振っているつわものもいる。ペンライトの種類も先端に星形がついていたり、羽根がついていたりと多様だ。(その振り方も、ロックやアイドルのコンサートと違って左右、テンポがまちまちだったり、ショーが進むにつれお疲れなのか振っている人が少なくなってくる、自由な感じなのが、いい。)
そしてお馴染みのデビュー曲「箱根八里の半次郎」のイントロが流れ、大きな帽子をかぶった洋装の氷川が階段上にセリ上がってくると、これまで、どの劇場でも経験したことのない現象が起きた。
「うわあっ」というどよめきとともに、期待に満ちていた観客の体温が上がったらしく、一瞬にして場内が蒸し暑くなったのだ。
サッカーや野球の試合の若い、あるいは中年男性メインの歓声とは全く異なる。宝塚や歌舞伎、あるいはブロードウェイの人気ミュージカルの喝采ともまた異なる。
「この人、好き」という単純なものではなく、もっと切実な、人々の腹の底から湧きあがるような「うわあっ」。
「この人を見る(聴く)のが楽しみで、今日もまた一日、生きていられる」とでもいうような、ある程度人生を経てきた客層ならではの、深い感慨のこもったどよめきなのである。
この圧倒的な観客の思い、期待に、氷川はまったくおじけることがない。
何度も衣裳を変え、ダンサーたちを従えながら、今の日本の歌謡界で一、二を争う(と、筆者は思う)確かな音程と豊かな声量を、惜しげもなく披露する。「国破れて山河あり…」で始まる杜甫の詩吟「春望」を織り込み、ごまかしのきかない大曲「白雲の城」を終盤の12曲目に持ってくるあたりなど、相当、喉の強さに自信があるのだろう。その一方では、歌の合間のトークで三階席の観客にも声を掛けたり、「みなさん、今日はどちらからですか?」と問いかけ、「広島」「徳島」など次々に遠方の地名が挙がると「有難うございます」と言った後でぽつりと「僕の好きなところばかり」とつぶやき、優しい人柄が垣間見える。おばあちゃん世代から「理想の孫」と呼ばれるゆえんだ。
ショーの〆は、「きよしのズンドコ節」。それまで袴姿だった彼が衣装替えに引っこみ、大階段の上から、「ベルばら」のオスカルよろしく、真っ赤な軍服で現れた。これが意外にも、細身の氷川にぴったり。もはや、曲とのミスマッチなどどうでもよくなる。ペンライトを膝の上でしばらく休ませていた観客も、その素敵さに煽られ、再びリズムに合わせて振りはじめた。そしてさびの部分に来ると、合いの手の「き・よ・し!」を大合唱。賑やかで楽しい、フィナーレだ。
終演後、階段やエスカレーターをゆっくり、連れと喋りながら降りてゆく観客たちの表情は、一様にほころんでいた。
 人を「幸せ」にする。これぞ、「スター」だ、と久々に思った数時間だった。
劇場内食事処の月替わり膳は、銭形平次にちなんだ「明神下御膳」。蕎麦に季節野菜の天麩羅、炊き合わせ、明治座自慢の鮭柚庵焼、しょうがご飯。優しい味付けで幕間に食べ切りやすいボリュームだ。
(追記)本記事について、読者の方から誤字の指摘を頂きました。感謝しつつ、修正させていただきました。

2011年6月17日金曜日

Today's Report [Art] 「技法」からクレーを知る回顧展

「パウル・クレー おわらないアトリエ」東京国立近代美術館 開催中~7月31日まで。開催スケジュールに変更の可能性があるので、来館前にはHP等でご確認を。http://www.momat.go.jp/
2011.530「パウル・クレー おわらないアトリエ」展 記者内見会(東京国立近代美術館)
 一人の作家の回顧展というと、作者の人生(画業)をいくつかのステージに分け、それに応じて作品を時系列に並べるのが一般的だ。
最近の好例としては「ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」(201010月、国立新美術館)。誰もが知っているゴッホの画業を改めて整理し、希望を胸にパリに上京したゴッホが、自分のスタイルを徐々に確立させて行く一方で周囲と衝突。そのまま狂気、自死へと至る過程を、アトリエの再現などの工夫とともにわかりやすく、臨場感たっぷりに紹介していた。作品展示を見終るころには、芸術に没頭するあまり破滅してしまった一つの人生の痛ましさが、余韻を残す展覧会でもあった。
今回のパウル・クレー回顧展はしかし、この「時系列」スタイルをとっていない。
「方法」型、つまり、作家がどのように作品を制作したかという「方法」ごとに作品を分け、提示することで、クレーの画業を紐解くのだという。
これまで、ありそうでなかった(と思われる)展示スタイルに興味を抱きつつ竹橋、東京国立近代美術館の特別展会場に足を踏み入れると、まずはクレーの自画像の数々に迎え入れられる。ユーモラスだがどこか繊細で、「ひょっとして家族や友人は付き合いが大変かも…」と思わせる線描の自画像。その次の展示室の、彼が各地に持っていたアトリエの写真とそこに写った作品群展示の中には、よく見かけるクレー作品もあり、「そうそう、クレーと言えばこういう色彩、構図だった」と再確認させられる。そしていよいよ、メインの大空間へ。
「うん?」
どう歩いたものかと一瞬、とまどいを覚える。
大空間の中にはいくつか展示パネルの「島」があるが、それらは三面、あるいはそれ以上の面を持ち、いびつな形をしている。(後で会場を上から見た設計図を見ると、三角形だったり凹みのある台形だったり)。これだけでもかなり不思議な感じがするが、それらの配置もまた不規則なので、観る側は最初のパネルを見終ると「次は、どこ?」ときょろきょろしてしまう。とりあえず裏手に回ってみたりするうち、通常の展覧会のように「順路通り」に鑑賞しなくてはという感覚が失せ、「ぶらぶら歩き」のような気楽さが生まれてくる。
これこそ、本展の趣向の一つなのだそうだ。
《バルトロ:復讐だ、おお!復讐だ!》1921,5 紙に油彩転写・水彩・上下に水彩による帯・厚紙に貼りつけ、24.4×31・2㎝、個人蔵(ベルン、スイス)
内見会後の記者会見で本展を担当した、東京国立近代美術館の三輪研究員が語ったところによると、この会場デザインは建築家、西澤徹夫によるもの。「一つの展示パネルを見ていると、別のパネルの作品もちらちら視界に入ったりする。自由に、絵画の森の中を散策しているような感覚で鑑賞できる(というのが狙い)」なのだそうだ。ちなみに京都会場での本展も同じデザイナーが担当したが、このときは図書館の書棚のような別バージョン設計だったという。
さて肝心の、この部屋の展示はというと、クレーが試みてきた様々な技法のうち、代表的な4つの紹介。「油彩転写」「切断・再構成」「切断・分離」「表裏の利用」の技法を用いた作品群が、4つの「島」に振り分けられている。
《E.附近の風景(バイエルンにて)》1921,182 紙に油彩・インク・切断して再構成・水彩とペンで縁どり・厚紙に貼りつけ、49.8×35.2㎝、パウル・クレー・センター(ベルン) 
《カイルアン、門の前で》1914,72 紙に水彩・鉛筆・厚紙に貼りつけ、13.5×22㎝、ストックホルム近代美術館
最初の島で紹介されるのは「油彩転写」。目に留まりやすい位置に書かれた説明によると、鉛筆やインクで素描を描き、それを黒い油絵の具を塗った紙の上に置いて、素描の線を針でなぞる。転写された線描の上に、彩色したり、リトグラフなどに発展させるという技法、とある。「素描と彩色画、版画の間を揺れ動くような技法」なのだそうだが、これだけ読むと「最初から油彩キャンバス上に線を描いてもよさそうなのに…なぜ、そんな手間を?」という疑問がわき起こり、何度も読み返してしまう。
だが、解説から離れて作品群を見始めると、「わざわざ転写された」線には一目瞭然、独特の風合いが見て取れる。「バルトロ:復讐だ!おお、復讐だ!」の素描と油彩転写バージョンを例に取れば、油彩転写のほうの線には、直接描いたのとは異なるかすれが生まれ、どこか素朴で頼りない「味」が生じて、何とも魅力的だ。明確に分かれた複数の技法の領域をぼかし、融合させてみたことで、得られた収穫といえるだろう。
《考え込んで》1939,918 紙に水彩・色鉛筆・厚紙に貼りつけ、19.8×29.4㎝、個人蔵(スイス)パウル・クレー・センター(べルン)寄託
そのほかの3技法は、解説段階からすんなり頭に入りやすい。「切断・再構築」は一度仕上げた作品を切断し、その断片を反転させて組み合わせたり、ちょっと間隔をあけて組み合わせるというもの。(例:「E.附近の風景 バイエルンにて」)。
「切断・分離」では、切断した断片を別々の作品として独立させてしまう(例:「カイルアン 門のまえで」)。
「表裏の利用」では、一つの作品の裏面に別の作品を描き、作品の次元を二次元から三次元に広げたり、裏面の作品がいつか発見されるのを待つことで作品に時間的広がりを与える。(例:「考えこんで」)。
切ったり、表裏両面に描いたり…というと、「幼児がお絵かき遊びの際に偶発的に行う可能性もあるなあ」という気もする。実際、クレーは教育にとらわれていないこどもの絵画をひとつの範としていたそうだが、生涯、芸術の在り方を考えつづけたという彼を研究者ではなく芸術家たらしめたのは、この「こどものような発想」、そしてそれを具現化できる力だったのかもしれない。
この展示空間の出口付近にはもう一つ、クレーが自ら「模範作品」として手元に置き続けた、「特別クラス」の作品群が展示されている。この回顧展の「まとめ」でもあり、今回クローズアップされた4つ以外にも彼が様々な引き出しをもっていたことを示す、贅沢な「おまけ」でもある。
クレー自身は1940年に亡くなっているけれど、この展示を見ていると、まるで彼がまだ存命中で、企画者と「こういうのはどう?」とアイディアを出し合いながら作りあげた場のような感覚を抱く。クリエイティブ、かつ噛み応えのある展覧会である。

2011年5月19日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「爽やかなカタルシスを誘う宙乗り」(2011.5.3 『五月花形歌舞伎』明治座)

2011.5.3「五月花形歌舞伎 昼の部『義経千本桜 川連法眼館の場』『蝶の道行』『恋飛脚大和往来 封印切の場』」(明治座)
 
 今でこそ商業演劇のイメージが強いものの、もともと明治6年、歌舞伎の芝居小屋として開場した「明治座」。この劇場で今月、16年ぶりに歌舞伎が上演されている。歌舞伎公演初日のロビーはどこも着物姿で華やぐものだが、今回は若手中心の座組ということもあって、観客の装いの中にはビンテージ着物の個性的なコーディネートなども見受けられ、目を楽しませる。
「蝶の道行」左から七之助、染五郎
写真提供:松竹
(「五月花形歌舞伎」東京・明治座 上演中~27日まで。
残席があれば当日、学生割引も有り
http://www.meijiza.co.jp/info/2011/05/main.html
昼の部の演目は『義経千本桜 川連法眼館の場(通称「四の切」)』『封印切』という分かりやすい芝居が二本に、舞踊『蝶の道行』という取り合わせ。視覚的にも美しく、歌舞伎初心者にも十分とっつきやすいが、決してお気楽な内容と言うわけではない。これらの作品に共通するのは、歌舞伎が17世紀の誕生以来、四百年以上にわたって受け継いできた世界観、「人の世の儚さ」だ。命は儚く、栄華や幸福といったものも永遠には続かない。そんな世にあって、人は何に依って生きるのか。義理か、情けか、正義それともやはり一瞬の富か…と、歌舞伎は様々な形で問いかけてきた。震災後、人々の価値観が改めて問われるなか、今回の公演ではこうした「問い」が、若手俳優たちの体当たりの演技により、直球で客席に届けられている。
「封印切」左から勘太郎、染五郎
写真提供:松竹
現世で結ばれず、蝶となった男女が、ありし日の恋を思い出しながら踊る『蝶の道行』では市川染五郎と中村七之助の二人がせつなさを漂わせながら「純愛」を演じ、大阪の商家の息子が悪友の挑発に乗って破滅を招いてしまう『封印切』では、中村勘太郎が現代のサスペンス劇に匹敵するジェットコースター的なスピード感とリアルさで「若気の至り」を熱演。それぞれに見ごたえがあるが、とりわけ強い印象を残したのが、一本目の「四の切」。源平合戦後の武士、庶民双方のエピソードを紡いだ大作「義経千本桜」の、終盤の一幕である。
親を殺され、皮をはいで鼓にされた子狐が、鼓の持ち主である静御前の従者に化けていたことが露見するものの、静と源義経の情けによって鼓を与えられ、狐は歓喜にむせびつつ、義経に危機を知らせる。
戦に敗れた平家方の人々、そして勝者であるはずが兄、頼朝に追われる義経。「義経千本桜」は一貫してこれら、滅びゆく人々のやるせない悲しみに覆われているが、その中で唯一「四の切」では、人間に勝るとも劣らない子狐の愛が報われ、一筋の光が差し込む。逆に言えば、動物にさえ純粋な親子の情があるというのに血縁同士で殺しあう人間たちへの風刺劇、という側面もあるのだが、若手の役者が懸命に演じると、あくまで「ひたすらに親を慕う子の情愛劇」として成立することが多い。
「四ノ切」左から亀治郎、門之助、染五郎
写真提供:松竹
今回、狐(通称、狐忠信)を演じる市川亀治郎は、1968年にこの役で宙乗り演出を復活し、当たり役として千回以上演じてきた、市川猿之助の甥にあたる。昨年、自主公演で伯父の指導を受け、本公演では今回が初挑戦。台詞の中に品性と憂いを醸し出す義経役の染五郎、ほんわり、おおらかなオーラで亀治郎と好対照をなす静御前役の門之助ら共演者にも恵まれ、手先を丸めたり発声を変えるなど、狐役ならではの「約束事」をこなしつつ、たっぷりとした間合いで古風な味を出したり、ダレないようテンポ良い台詞回しにスイッチしたり、と細やかな工夫が垣間見える。後半、狐の本性でもだえ泣く所作などでは、子狐らしい、キレのよい動きものぞく。
クライマックスは幕切れの「宙乗り」。狐が舞台を飛び出し、客席の上を通って彼方へ飛んでゆくという澤瀉屋(猿之助)演出は、狐のみならず物語世界全体が空に放たれ、舞台上にあった非日常と客席に存在する日常が融合するという特異な爽快感に満ちたものだが、亀治郎演じる狐は溌剌と、弾むように、天空を駆けていった。
狐が消えてゆくのと同時に、頭上から降りしきる無数の桜の花びら。亀治郎の持ち味によるのだろうか、今回のそれは、「儚さ」というより「希望」の象徴のように映った。ただ薄紙を切ったものだとわかってはいても、「爽やかなカタルシスの記念に」とばかりに、服の上に落ちたひとひらをプログラムの間やバッグに忍ばせた観客が、そこかしこに見受けられた。

2011年5月12日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「胸震わせる、恋の歌」(2011.4.10 石丸幹二ソロコンサート「spring with kanji ishimaru」)

「spring with kanji ishimaru」撮影:山路ゆか
2011.410 石丸幹二ソロコンサート「spring with kanji ishumaru(日本橋三井ホール)

 先日の記事で、震災後の私たちの応援ソング候補に、と提案した「春の唄」。
CDでこの曲を歌っている石丸幹二がリサイタルを行うというので、出かけてみた。
会場はほぼ満員。ポップス歌手のコンサートのような熱気むんむんというのではなく、大方を占める女性客の醸し出す落ち着いた期待感のなか、バンドのメンバーが登場し、イントロを奏で始める。
「春の唄」。さっそく、目当ての曲だ。下手から、スーツ姿の石丸が登場。
♪春を告げる風吹いて 新しい何かが始まるよ…♪
楽しさ、力強さを兼ね備えた歌いだしは、CDのまま。
だが、「新しい」という語句を、石丸はことさら、キャビネットに可憐なティーカップを飾る動作のように「そっと」置き、そのあとの「始まるよ」も丁寧に、優しく発した。
何かを大声で言われるより耳元でささやかれたほうが説得力があるのと同じで、この歌唱なら、「新しく何かが始まる」という歌詞がより際立ち、聴き手の中で希望がふつふつと漲ってくる。
楽譜に書かれた通り歌うことのできる歌手は大勢いるけれど、こんなふうに、言葉をも含めて歌を膨らませ、自在に歌える歌手はそう、多くない。音大ではじめサックスを専攻したことで自分の声を楽器的な感覚でとらえることが出来、また数多くのミュージカルやストレートプレイに主演、膨大な音符や言葉と対峙してきた彼ならではの業(わざ)だろう。
以降、石丸の気さくなトークを差し挟みつつ、コンサートは進行。CD収録曲を中心とした持ち歌が次々と披露されるなか、とあるシーンにはっとさせられた。歌ったのは16世紀イギリスの古歌「グリーン・スリーブス」。ヘンリー8世が後に妻となるアン・ブーリンのために作ったとも言われる、「緑の袖を着たつれない女性」への片思いの唄である。
石丸は最近、出演した舞台『十二夜』で吟遊詩人を演じるくだりがあり、演出家・串田和美の「何か工夫して」とのリクエストから、ハープを手に、この歌の旋律で或る物語を歌うことを思いついたのだそうだ。これを再現してみたい、と彼は椅子に腰かけ、小型ハープを抱きながら歌い始めたのだが、驚いたのはその替え歌の内容。か細くも凛としたハープの音に乗って語られたのは、「半身信仰」だったのだ。
ヨーロッパで太古の昔から信じられ、多くの神話に影響を与えてきた「半身」の概念は、男女の愛の由来を説明するものである。(拙著「アイルランド民話紀行」でも言及している。)
…昔、人間には男も女もなかった。
それを寂しく思った人間は神に訴え、神は願いを聞いて人間を二つに引き裂く。
男と女である。
二人は飽くことなく互いを見つめあうが、時の流れとともに別々に行動するようになる。
やがて互いの姿が見えないことに気づいた二人は、その喪失感から、かつて自分の半身であったところのパートナーを求め続ける。
…これが「半身信仰」による、男が女を、女が男を求め合うゆえんである。
石丸は「グリーン・スリーブス」の憂いに満ちたメロディに乗せて、この物語を穏やかに語った。
森の奥深くに迷い込んだ男と、小川のほとりを惑う女。
二人は互いを見つけることができない…。
石丸の声とハープというシンプルな音編成が、聴衆のイマジネーションをかきたてる。
そして、男が女を思いながら、疲れて眠ってしまうという幕切れにはいいようのない切なさが漂い、客席は一瞬、深い静寂に包まれた。

 震災以降、昔の彼氏に連絡するOLが増えているという。
 あまりにも多くの人々が一瞬にして家族や恋人を失ったことをニュースで見聞きし、それまで仕事第一に過ごしてきた彼女たちの中にふと、「人恋しさ」という感覚が甦ったということらしい。
 女性に限らず、それまで「脳」先行で生活してきた人々が、一種原始的な、「肌」レベルの感覚に立ち返り、「人」を希求するという現象は、日本各地で起こっているようだ。筆者の周りでも俄かに婚活に励みだした未婚男女がいる。
 そんな日本の「今」の空気に、この「グリーン・スリーブス替え歌」は思いがけなく、ぴたりと合致する一曲だった。
石丸は秋にもリサイタルを予定していて、次回はジャジーなプログラムにするということだが、出来うるなら再び、この歌…この物語を聴き、胸震わせるような太古の感覚に浸ってみたい、と思う。