2012年1月29日日曜日

Theatre Essay 観劇雑感「ロングランミュージカルで二人の新・主役がお目見得」(2012.1.12劇団四季『オペラ座の怪人』1.21四季劇場・海『美女と野獣』四季劇場・夏)

『オペラ座の怪人』大山大輔(左)
写真提供:劇団四季、撮影:上原タカシ
 ロングラン・ミュージカルの楽しみの一つに、様々なキャストで観る、ということがある。
 同じ演出に基づき同じ表現をしていても、役者の感性、持ち味によって、見え方は様々。
回を重ねるうちに演技に工夫が加わったりもするので、観る側としては鑑賞の度に何らかの発見があるし、見比べるうち、その作品、役がどう演じられて欲しいのかという自分なりの作品観、役柄観が見えてきたりもする。最近も劇団四季のお馴染み演目で、頼もしい新・主役が登場。『オペラ座の怪人』タイトルロールの大山大輔、『美女と野獣』の野獣役、中井智彦である。

 
昨年10月にファントム・デビューした大山は、東京芸大を首席で卒業後、数々の国内オペラ公演でフィガロ、ドン・ジョバンニ等の大役を手掛けてきた花形バリトン歌手。「若いファントム」とは聞いていたが、実際に観てみるとなるほど、若い。(なんと29歳…。映画版のジェラード・バトラーも撮影時3435歳だったが、相手役エミー・ロッサムが役と同じ16歳だったので、そう若さが突出してはいなかった)。
物語の前提には、クリスティーヌと怪人(音楽の天使)の、プラトニックかつ官能的な愛を秘めた師弟関係がある。それがラウルの出現によって脅かされ、怪人は破滅的行為を重ねてゆくのだが、この「前提」はクリスティーヌが怪人に「父」の面影を見ていることによって成立しているため、歴代の怪人たちには「父」にして「師」の自分が愛を成就するすべを知らず、蛮行に及んでしまったという感があった。いっぽう、若くエネルギッシュな大山ファントムの場合、ラウル登場によって引き出された「強引で不器用な愛」が、前面に出る。カルロッタの代役を務めたクリスティーヌを褒める第一声「ブラーヴァ、ブラーヴァ・・・」こそ、彼女の頬を撫でるような優しさだが、艶やかで安定した低音に徐々にドラマ性を加え、後半の「ポイント・オブ・ノー・リターン」では「肉食系男子」さながらの勢いでクリスティーヌに求愛。(昔ウィーンで観た、客席のこちらまで食われてしまいそうな、大迫力のファントムが思い出された。その時は土地柄、歌唱力ありきのキャスティングだったのか、ファントムもクリスティーヌも随分老けていたのだけれど。)
これはおそらく、物語全体の印象を左右するポイントだ。最後にクリスティーヌを失うと、「父性愛」を起点とするこれまでのファントムには「人生にはもう何も残されていない」とばかりに、尾羽打ち枯らした哀れが漂う。解放したクリスティーヌが一瞬戻り、指輪を返して再び去って行くくだりなど、拒絶のダメ押しのようで再び立ち上がれないほどに打ちのめされるところだが、大山ファントムは、さにあらず。クリスティーヌから渡された指輪を「愛した女性の指に一瞬でもはめられていたもの」として、大切に抱く。そこには絶望ではなく、むしろ人間性に目覚めた怪人の、小さな喜びがある。「わが恋は終わりぬ」と歌いながら姿を消すも、その人生はまだまだ続いてゆきそうで、続編への期待ももたげるのである。この日はまだ16回目の出演とのこと。細部の演技は今後、深まってゆくのだろう。

いっぽう、『美女と野獣』は美女=ベルが生来の優しさで野獣に影響を与え、人間として成長させていくという意味で、「姉弟愛」的な側面をもつ物語である。
村人たちには「変わり者」というレッテルを貼られているベルだが、オオカミとの戦いで傷ついた野獣を介抱したり、お気に入りの本を読む順番を譲ったり、彼が文字を読めないことを告白すると、「この本は朗読にぴったりなのよ」とフォローしつつ読み聞かせしてあげる姿は、弟に無償の愛を注ぐ「お姉ちゃん」そのもの。そんな役柄に、折り目正しく、お姉さん的な持ち味がぴったりのこの日のベル、坂本里咲に対して、ビースト役は『オペラ座の怪人』ラウル役で既に四季デビューは果たしている中井智彦。この野獣役、ラストを除けばずっと着ぐるみ状態で表現が限られ、慣れるまではなかなか厄介な役かと思うが、中井のその明るい声質には「甘えん坊王子」の雰囲気がよく出ていて、坂本とのコンビネーションは上々。最後に魔法が解け、人間の姿に戻ると、中井の王子には歴代の同役の中でもとりわけ少年の面影が残っていて、地団太を踏んだり椅子に靴のまま乗って食事をしたりといった、それまでの野獣のいささか子供っぽい行動との連続性がある点もいい。
坂本も既に本作に長く出演しているが、この日のガストン役、野中万寿夫は大ベテラン。ひょっと足を延ばす何気ないしぐさにアニメのような流麗さがあったり、クライマックスに向かって徐々に悪としての凄みを増してゆく様が、流石だ。こうした先輩たちに日々囲まれ、その芸を盗み、自分ならではのビーストを確立してゆくチャンスを与えられた中井には、きっとそれをものにするだろうと期待したい。

数か月して、おそらくは彼らに少しゆとりが生まれ、工夫を試み始めたころに再見してみよう、と思う。彼らの成長を見守る、それこそ「お姉ちゃん」的な楽しみもあるし、また何か、作品についての発見があることだろう。ロングランを重ねる作品にはそれだけの懐の深さが、ある。

2012年1月20日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「人類への問いを突き付ける、エンターテインメント・オペラ」(2012.1.15METライブビューイング『ファウスト』東劇)


MET『ファウスト』右からポプラフスカヤ、カウフマン、パーペ
(c)Ken Howard /Metropolitan Opera

 東銀座の東劇ほかで20日まで、METライブビューイング『ファウスト』(グノー)が上映されている。
The Who’s TOMMY」などで知られるブロードウェイ・ミュージカルの演出家、デズ・マカナフのMETオペラ初仕事で、ヨナス・カウフマン(ファウスト)、ルネ・パーペ(メフィストフェレス)、マリーナ・ポプラフスカヤ(マルグリット)らが出演。
演出に「原爆」という、日本人にとっては極めてデリケートなモチーフを取り入れ、視覚面ではヒロインの顔の映像を幕に大写しするという、ミュージカル『マルグリット』から拝借したかのような手法を使い、さらには昨年、原発事故後に「ボローニャ歌劇場来日公演」への出演をキャンセルし、日本のオペラファンに複雑な思いを抱かせたカウフマン(ドタキャン組よりはましだが)の主演…という数々のネガティブ要素にもかかわらず、スリリングなことこの上なく、4時間弱のあいだ目が離せない。早くも、今年の鑑賞作品ベストワン候補の登場、である。 

学問に人生を捧げてきた博士が青春と引き換えに悪魔に魂を売り渡し、恋愛を謳歌し、皇帝に仕え、ギリシャ神話世界へと旅をする…。
中世に実在したという黒魔術師、ファウストス伝説をもとにゲーテが書いた壮大な物語『ファウスト』のうち、グノーは純朴な娘との恋の顛末を描いた第一部をオペラ化している。導入部分こそファウストの物語ではあるが、このヴァージョンでグノーはファウスト本人よりも、彼との出会いから転落し、最後に救済されるヒロインの描写に力を入れているため、後半はほとんど彼女の物語へとシフト。ファウストの物語としてはいささか物足りなさの残るオペラなのだが、マカナフはこれを、物語全体がファウストの夢であるという「入れ子」形式を取り入れることで解決している。
舞台の設定は中世ではなく、1945年の、とある研究室。背後に原爆ドームが映し出され、黒こげになった人々が通り過ぎる。原爆開発者のファウストは、自らの創造物がもたらした悲劇に呆然としながら「無(rien)…」と歌いだす。この歌詞が見事にはまる。原作では「すべてを学んだつもりでも人間は所詮、すべてを知り尽くすことなどできない」と悟った学者の虚無感から生まれる「無…」なのだが、今回の演出ではより具体的な虚無感による「無…」。力強くも陰鬱さを湛えた声のカウフマン、悪の権化を愉快そうに演じつつ、シリアスなテーマをよく心得たパーペもキャラクターにはまり、見事な「つかみ」であると言える。(マカナフはこの演出プランを、長崎を訪れたことで物理学をやめた学者の夫人に出会った経験から、思いついたのだという)。
ファウストは絶望のあまり服毒自殺を試みるが、目の前に現れた悪魔メフィストフェレスに「何でも望みのものを」ともちかけられ、若返る代わりに死後は悪魔に仕えるという契約書にサインする。(虚無感の原因が「原爆」という深刻なものであるだけに、ここでファウストが連呼する「快楽を!」という歌詞には今回の演出上唯一、唐突感、違和感が残る。)
若返ったファウストは町娘のマルグリットに出会い、その純朴さに「この貧しさの中の(心の)豊かさよ…」と感激する。だが人間は弱いもので、メフィストフェレスに宝石箱を贈るよう勧められると、彼女の美徳にはそぐわないこの贈り物を彼女の部屋に置き、様子を見る。敬虔でつつましい生活を送るマルグリットのほうも、宝石を見つけると「ちょっとだけつけてみよう」と身に着け、しばし浮かれる。以降、物語の主人公は少しずつマルグリットへと移行。その潜在願望を見抜いたメフィストフェレスに操られ、彼女は出会ったばかりのファウストに身を捧げて身ごもり、捨てられる。後ろ指をさされ涙にくれながら耐えるマルグリットだが、戦争から帰還した兄がファウストと決闘し、敗れ、妹を呪いながら息を引き取るに至って絶望。神の助けを求めて教会に駆け込み、必死に祈るが、メフィストフェレスに「お前は祈ってはならない」と遮られ、ついに発狂する。グノーが最初に手掛けたシーンだけあって、この場面の音楽は「入魂」というにふさわしく、ヒロインの「内なる悪」にも見えるメフィストフェレスとマルグリットの対決をダイナミックに盛り上げる。(このシーンで整然と並び、歌っている聖歌隊は、白衣姿。大方の観客が、彼らが冒頭に登場した研究所の同僚たちであることを思い出し、さてはこの物語はメフィストの「夢」であるのか?と薄々気づくことだろう。)そうして曲終わり、マルグリットは生まれたばかりの赤子を溺死させてしまう。たった一人の身寄りとしてこよなく愛した兄に見捨てられ、放心する姿。狂気の薄笑いを浮かべながら、赤子に手をかける表情…。「真面目」と「純朴さ」を声にしたらこうなる、とでもいうような本役にぴったりの声のみならず、全身全霊を捧げて演じるポプラフスカヤが、出色。そしてその細部を逃さずとらえ、的確に映し出すカメラワークも、METライブビューイングならではだ。
一度はメフィストフェレス(=内なる悪)に敗れたマルグリットだが、子殺しの罪で牢に囚われ、明日は処刑という時にファウストが脱走をもちかけると、ついに己を取り戻し、牢の中にとどまる。後方に処刑台が現れ、彼女は迷いのない表情で階段を上ってゆく。(ミュージカル『キャッツ』の終幕を思わせる、「昇天」の表現である)。コーラスはここで「キリストは甦りたもう」と歌い、荘厳な音楽に包まれて終幕…であるところを、マカナフは最後に老博士ファウストを再登場させ、手に持った毒薬をあおぎ、倒れさせる。一度は頭をよぎった「青春」も、目の前の(原爆と言う)現実の重さの前では決して幸福には帰結せず、儚く吹き飛んでしまうことを悟ったかのように…。
通常、本作はキリスト教色を色濃く印象づけることが多いそうで、実際キリスト教信仰に基づいた歌詞も多々登場するが、今回マカナフはなるべくそれが前面に出ないよう意識。その結果、マルグリットとメフィストフェレスの戦いは「信心」対「不信心」ではなく、「道徳」と「不道徳」のせめぎあいとして描かれ、作品もキリスト教信仰の枠を超え、普遍的な一つの問いを呈示することに成功している。
「私たちは今、人類に希望を抱くべきなのか。絶望すべきなのか」。
一夜の娯楽として秀逸ながら、同時にずしりと重い問いを突き付けるオペラでもある。

2012年1月7日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「『歳の差婚』、姉さん女房の場合。」(2011.12.23新橋演舞場『年忘れ喜劇特別公演』)

「年忘れ喜劇特別公演」ちらしより。画像提供:新橋演舞場

 大正時代の京都。とある長屋に、腕のいい髪結いのおかつと年下の亭主、清之助が暮らしている。
おかつは清之助の浮気を心配して大工の彼に仕事をさせず、日がなごろごろさせている。その分、自分が生計を立てようとするのだが、清之助が気になって仕事に身が入らない。こんなことでは、と長屋の家主たちが一計を案じ、二人に三か月の別居を提案するのだが…。
昭和38年に藤山寛美、酒井光子主演で初演された、松竹新喜劇の名作『銀のかんざし』。3年前からは寛美の娘、藤山直美と歌舞伎役者、坂東薪車が取り組んでいて、今回、初の東京公演を前に薪車にインタビューする機会があった(『TV Taro』関東版20121月号)。門閥外の出身ながら近年大役の機会に恵まれているだけあって、彼の芝居に対する姿勢は謙虚にして貪欲。常に本名の自分が「薪車」という役者を客観視していて、思うような芝居ができない時、努力が足りないと思う時には「そんなことじゃ『薪車』がかわいそうだぞ」と自らを叱咤激励しているのだそう。本作初挑戦の折には、稽古期間が三日しかない歌舞伎界の慣習も手伝って、稽古が始まるまでにがちがちに役を固めて臨んだら、周囲のベテラン勢は台詞も何も覚えていない。稽古の間、互いに相手の芝居を見ながら「そう来たか、それならこちらはこう返そう」と絶えず計算をし、作り上げていくというやり方なのに驚いたのだそうだ。それだのに自分は自分の台詞を言うので精いっぱい。「苦い思い出」だったそうだが、その後回数を重ねるなかで、少しずつ計算ができるようになり、客席の様々な反応も日々、楽しみになってきたそう。「今回はさらに情を深め、思い切り芝居を動かしていきたい」と抱負を語っていたが、さてその成果やいかに。 

「年下の男に対する女性の執着」。それが「片思い」ということなら、歌舞伎の『摂州合邦辻』だとかラシーヌの『フェードル』だとか、いくつかの作品が思いつくものの、本作のように「既に夫婦」という前提の芝居となると、あまり聞かない。そんなレアな設定に敢えて踏み込んだ本作は夫婦、特に女の側の心の機微を、舞台ならではの振り幅の大きな表現で見せてゆく。
冒頭、清之助と家主がおかつの噂話をしている。「束縛」型の彼女と暮らす苦労を語る割に、清之助はおかつに命じられた女物の着物姿にも馴染み、のほほんとしている。この清之助はなかなかに人物像の塩梅が難しそうな役で、いかにも主体性のない「ヒモ」な感じでは安っぽくなるし、かといって年上の女の愛情に包まれるのが心地よい風を出さないと、行動に整合性がなくなるのだが、薪車演じる清之助にはまず、柱にもたれたり、おかつに膝枕をしてもらうなど何気ない所作の一つ一つに、清潔な美しさがある。いっぽうでは、これは年上の女性と付き合うほとんどの男性に共通することだが、男として、仕事を持つ身としての「自信」がそこはかとなく漂い、そこがまた年上の女性から見ると可愛らしい。それまで仕事一筋だったおかつにの人生を一変してしまったのにも、納得がゆく人物像だ。
さて、満を持して登場する藤山直美のおかつは、夫の一挙手一投足に目を光らせ、「あんた!」とけん制。観客の期待通りの(?)、絵に描いたような「鬼嫁」なのだが、ふとした瞬間にいそいそと清之助の足を拭いたり、着替えをさせたり酌をしたり…。日常のしぐさの中に、夫がいとおしくて仕方がないという心情が覗く。かわいがっているだけなら「お母さん」だが、そこは夫婦ということで、夫に甘える場面もある。別居を提案された際、「三か月は長い」と拗ねるおかつを、清之助が「しょうがないなあ」と家主たちの目の前にもかかわらずわらべ歌であやしたり、ぎゅっと抱きしめたり…。傍目には幼稚にしか見えないこんな行動も、当人たちにとっては立派な愛情表現、生活の一部。これをテレビのトレンディドラマばりの「自然な演技」で表現してしまうと、芝居が小さく、つまらなく見えてしまうところだが、直美と薪車はくっきり、たっぷりと演じ、バカバカしくも微笑ましい場面を作り上げ、映像のクローズアップ以上の効果をあげる。二人の「お熱い様子」を見せつけられる家主役、小島秀哉も呆れ果て、いたたまれない風情が絶妙で、おかしさを盛り立てる。
それだけに、後半の深刻な展開は思いがけなく、とりわけおかつが気の毒に映る。夫とは三か月限りの別居のつもりで仕事に精進、もとの評判を取り戻して数日後の再会を楽しみにしているおかつの耳に、実は清之助には若い娘との縁談が進んでいるという話が飛び込んでくるのだ。(このことを話さざるをえなくなる女弟子役の二人、森亜利沙、佐久間春夢が思い切りよく、ドリフばりのドタバタで笑わせるが、ここはもうちょっと間を詰めてもいいかもしれない)。親切心からとはいえ、家主たちは最初から彼女を騙し、清之助から引き離したのだった。ここで、たとえばこれが新派の芝居なら、女の側が「彼のため」と涙を流し、美しく身を引くところだろうが、おかつは違う。大酒をくらい、酔った勢いで刃物を手に、清之助の縁談を進めている雇い主のもとへ、直談判に走り出す。(この、憤怒から浴びるように酒を飲み、駆け出すまでの過程もたっぷりとした見せ場で、歌舞伎の『魚屋宗五郎』のパロディのようだが、実際、そんな演出意図があるのかもしれない。)
入れ違いで、雇い主のもとを飛び出した清之助が帰ってくる。もともと気が優しいのか優柔不断なのか、周囲が勝手に進める縁談を断れずにいた彼だが、「このままではあまりにおかつがかわいそう」と気になって戻ってきたのだ。いっぽう、雇い主のもとから自宅へ追い返されたおかつは、すっかり酩酊し、わめきながら寝入ってしまう。出かけた時の勢いと比べるとかなりカッコ悪い有様だが、この「しょうもなさ」に歌舞伎の和事の二枚目に通じる愛嬌があり、いかにも上方の芝居らしい。清之助は、彼が離れてゆかないよう、おかつがひそかに大事な銀のかんざしを使って打っていた藁人形を発見し、ついに腹をくくり、家主に向かっておかつとは別れないと宣言する。「こんなに(藁人形を打たれるほどに)女に惚れられたこと、ありますか?」。それまでは女の母性的な愛に包まれ、心地よさに身を委ねていた男が、女のいじらしいまでの心情を知り、「自分が守らなくては」という心境に転じるのだ。目覚めた女房を今度は彼の方が、大きな愛で包むように抱き寄せる。二人の新たな関係性を予感させながら、幕は下りる。おかつの一途さが報われる結末に、観客としてはほっと一安心、である。
やはり姉さん女房である筆者からすると、おかつの行動は正直、随分と極端なものに映る。最たるものが、藁人形だ。いくら愛に狂ったとは言え、仕事にそれなりの誇りを持って生きてきたであろう女性が、大切な仕事道具でそんなことをするだろうか。だが劇中、周囲の人々もあれこれと「歳の差婚」を揶揄しているし、まだまだ「姉さん女房」自体が少数であった大正時代ならば、おかつのように追い詰められた心境にも、なりうるのかもしれない。それ以上に、「愛の形はいろいろ。周りがとやかく言うことではない」というところに帰着する筋立てに共感できるし、舞台ならでは、基礎をしっかり積んだ役者たちならではの、様式とリアルを自在に行き交う演技を観るのも楽しい。

この日の客層は家主か、それ以上の世代の女性が多かったが、ブラウン管で展開する、「大笑いして、はい次」式のお笑いを見慣れている若い人にも、時にはこういう喜劇はいかが?とお勧めしたい。デフォルメたっぷり、時にはじれったいようなベタな笑いの中に、そこには名もない、けれど愛すべき人々が確かに息づいていて、人の世の哀れと幸せとを、凝縮して見せてくれる。彼らの存在の余韻…じんわりとした温もりを土産に帰途に就くのも、なかなかいいものですよ。

2011年12月30日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「演劇という、幸福な共同作業」(2011.12.3 『みんな我が子』新国立劇場小劇場)


「みんな我が子」(左から)麻美れい、長塚京三。写真提供・梅田芸術劇場
  「いいなあ、この一座」。
そんなふうに、羨ましさを覚える舞台が、たまにある。
例えば「いい舞台」を観れば充実感で気分が高揚するし、「一座が家族のように仲が良さそうな舞台」を観れば嬉しさを覚える。
けれど今回の「みんな我が子」には、「もしも自分もこの一座に身を置いていたら、とびきり刺激的な体験ができたかもしれない」などと、羨望にも似た空想をしてしまった。それほど、クリエイティブな《気》が満ちた舞台だった。

素材である『みんな我が子』は1947年、作者のアーサー・ミラーにトニー賞をもたらした戯曲だが、日本ではそうなじみのある作品ではない。
第二次世界大戦終了後のアメリカ中西部を舞台に、戦中に財をなしたとある一家の「秘密」と、それが暴かれたために起こる悲劇を描く。一つのホームドラマとして始まりながら、後半「社会対個人」「資本主義対理想主義」「アメリカの欺瞞」の物語へと、急激にスケールアップしてゆく鋭い社会批判劇は、初演当時、清濁飲み込んで戦争を生き抜いたアメリカン人たちにとっては、身に覚えがあるとまでは言わなくとも、痛みを感じずには観られない戯曲であっただろう。だが日本の私たちにとっては、いかんせん「アメリカ中西部」「1947年」は私たちには遠く、アメリカ人が当時抱いていた戦後の「気分」も分かりにくい。本作を日本で上演しても、遠い世界の出来事として目の前を流れていってしまう可能性が大きいことが、上演回数が多くない理由なのだと容易に想像がつく。
それにもかかわらず、今回の舞台は前半は淡々とホームドラマを見せ、後半一気にドラマティックに展開、はらはらさせつつ、最後の台詞まで観客をくぎ付けにする。出演者たちが自分の芝居に溺れることなく、作品の全体像、その中での自分の立ち位置を把握し、一つ一つの台詞を発しているので、それぞれの表現が分かりやすい。饒舌な翻訳劇にありがちな、「思いもしない言葉を言わされている」「日本人の習慣にはないけれど台本に書かれているのでこうしている」という瞬間がないのも、いい。これは相当、濃密な稽古を積み重ねていったのだろう…。そう思いながら観ていたら、終演後のアフタートークで、まさにその話題が出ていた。
今回、演出を手掛けたのは新進演出家のダニエル・カトナー、33歳。「オペラ座の怪人」で知られるハロルド・プリンスの一番弟子、ということだが、ブロードウェイではまだ自身の代表作はなく、「新人」と言っていい。アフタートークでは劇中、一家のナイーブな次男役を熱演した田島優成が司会を勤め、カトナーへの全幅の信頼を滲ませながら、彼の言葉を引き出していた。「演出にあたって、あなたが始めに『今日まで3か月間この台本と寝食を共にして準備してきたけれど、僕の描いた像を押し付けるつもりはありません』と言ってくれたのが印象的でした」「演出家の考えだからこう動く、ということはしてほしくないんです。役者さんたちには、自分でリアルに感じながら演じてほしい。芝居を絵画に例えると、稽古前に輪郭を描いておくのが僕の役目。色彩は稽古が始まってから入れてゆきます」「ハロルド・プリンスさんからはどんなことを学ばれたんですか?」「準備の大切さですね。演出する戯曲をいただいたら、すべての方向から研究します。今回で言えば、第二次世界大戦、アメリカ中西部、登場人物の職業、軍隊などについて、リサーチを積み重ねました。役者さんに質問されて、答えられないことがあってはまずいですから()」。他の仕事同様、演出は一つの「職業」なので…というコメントからも、この人の生真面目さ、勤勉さが覗く。といっても真面目一本やりというわけでもなく、最期には田島に促される形で、出演者の物まねを披露していた。
この演出家のもと、一座は熱い議論を交わしながら、緻密に芝居を組み立てて行ったのだという。プログラムの中でも、一家の大黒柱を演じた長塚京三は「一緒に勉強しているようで、学生劇団みたい。この感じ、好きなんだ」、その妻を演じた麻美れいも「(カトナーは)決してあきらめないし、物作りに対する姿勢が前向きで、いい」と語っていて、田島のみならず全員が迷いなくカトナーに身を委ね、丁寧に稽古を重ねていったらしい。(どんなにか、熱気あふれる現場だったろう!) その結果、舞台はストーリーテリングに終始せず、出演者の一人ひとりが光を放ち、好感を抱かせる。「たたき上げの成金・工場経営者」役は長塚には本来、不似合な役のはずだが、「子どもには自分以上の生活をさせたいと願う親世代への鎮魂歌という意味を持たせたい」「(難解な作品を苦しみながらも楽しむという)、『品の良さ』がこの作品にはある」という意識を持って演じたそうで、役に彼ならではの知性を加え、終盤、どうにも自身を正当化することができず、破滅してゆく過程の悲劇味を倍増させた。麻美れいも、これまで演じた『オイディプス王』や『双頭の鷲』の王女など浮世離れした役の印象が強く、アメリカの地方の一主婦役というのが最初は不思議に感じられただが、芝居の全体像が見えるにつれ、この舞台には彼女が持つスケール感が必要だったのだと納得。芝居を締める最後の台詞も、麻美が発することで「絶望の果ての希望」を含ませ、印象深いものにしていた。次男の恋人で、家長を追い詰めることになる真実を知らせる娘役は、自分の恋のためなら他がどうなってもいいという女心がいやらしく見えるリスクのある役だが、可憐でさっぱりとした持ち味の朝海ひかるが演じると、一途な娘の健気な行動に見える。その兄で、舞台後半をかき回し、不意に去ってゆく青年役の柄本佑も、一家に対しての怒りだけでなく、次男に対するコンプレックスを秘めているようで、去った後も余韻を残す。隆大介演じる、夢をあきらめきれない医師と、山下容莉枝演じる、夫を現実に向き合わせようと必死のその妻、加治将樹、浜崎茜演じる、ブルーカラーながら子宝に恵まれ幸福そうなカップルといった、一家の隣人たちの存在にもリアリティがあり、「遠い物語」を現代日本の観客に引き寄せていた。

ところで、本作のタイトルは『All My Sons』だが、邦題は『みんな我が子』。どこかで聞いたようなフレーズだ。作品解説には、旧約聖書がインスピレーションとあったが、もっと身近に聞いているような気もしないでもない。
…と考えていて、ふと思い出した。なんのことはない、筆者が参加している子育てママサークルでの、合言葉だ。サークル活動では、子ども同伴。まだしつけも始まらない乳児たちは、ママの目を盗んで(?)は他の赤ちゃんのおもちゃで遊んだり、ママたちの荷物を逆さまにしたり、体の上に乗ってきたりと、予測不可能の行動をする。けれど何があっても「みんな我が子」の精神で、お互いおおらかに接し、慈しみあおう、とサークルでは言い合っている。
劇中でも、この「みんな我が子」というフレーズは、「重さ」の違いはあれ、こうした「人類愛」を訴えるものとして言及されていた。自分、自分の家族だけ良ければいいという考えでは、人は生きては行けない。命あるもの皆、慈しみあってこそ、人の世は成立するのである。
もしかしたらこの、日本では馴染のない社会批判劇を今、ここで上演することになった意図も、こういうところにあったのかもしれない。


2011年12月2日金曜日

Today's Report [Theatre 番外編] 劇場ちらしの誘惑、2011-2012冬。

 劇場に行くと、入場時に近々の公演ちらしの束を渡される。
 開演前に席につき、この束を一枚一枚捲っては、この演目、あの顔合わせに思いを巡らせるのが、演劇ファンの愉しみの一つだ。
 ただ、長年(思えば幼稚園の頃から)芝居に関わっていたりもすると、最近は劇作家と演出家と主演俳優の名前を見ただけでだいたいどんな舞台か想像できてしまい、そうそう「どきどきわくわく」することもないのだが…、1110日、渋谷パルコ劇場(演目は井上芳雄ら出演の『Triangle vol.2』)で渡されたちらし束40枚弱は、珍しく次々にそんなときめきを提供してくれた。この冬、観たい演目の忘備録という意味合いもあって、記しておきたい。

*唐十郎×蜷川幸雄×宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘(AAA)。『下谷万年町物語』(20121Bunkamuraシアターコクーン)
 最も目を引くちらしだ。
 太い筆書きのタイトル。黒地に赤い蝶たちが舞い、中央に男装の宮沢、藤原、西島隆弘の扮装写真。「昭和21年からオカマたちでにぎわい、電蓄から鳴るタンゴの曲で、ハエがとび交う町でした」というキャッチコピー…。唐作品のインパクトの強さが、そのままに表現されている。出演者の中に新宿梁山泊の演出家で、以前NHKのドラマで役者としても魅力的だった金守珍の名がある点でも惹かれる舞台だ。

*野田秀樹×宮沢りえ、池田成志、近藤良平。『The Bee 日本人キャスト版』(20124月東京・水天宮ピット大スタジオ、5月大阪、6月北九州、松本、静岡)
 NHK大河ドラマ『江』で主人公の姉、茶々を演じていた宮沢。正直なところドラマには一年を通して感情移入できなかったが、彼女の演技には目を見はった。過酷な運命に翻弄されつつ自分の芯を見失わずに生きた茶々を、腹からのしっかりとした発声で体現。玉三郎主演舞台から野田秀樹の芝居まで、これまでの様々な舞台経験が見事に生きている、と感じさせた。その彼女が『下谷万年町物語』、本作と再び舞台づいている。コンドルズの近藤良平も面白いことをしてくれそうだ。23月には東京で英国人バージョンの上演もあり、野田さん(昔、担当編集者としてお世話になっていたので親しみをこめて「野田さん」)は演出のみならず、両バージョンに出演もする。

*フランク・ワイルドボーン×濱田めぐみ、田代万里生。『ミュージカルBonnie&Clyde俺たちに明日は無い』(20121月青山劇場)
 日本発の見応えある新作ミュージカル『MITSUKO』で手堅い作曲を披露したワイルドボーンの最新作を、劇団四季を退団した濱田と、『マルグリット』で彗星のように現れた逸材、田代が演じる。濱田は『ライオンキング』のナラ、『アイーダ』のタイトルロール、『ウィキッド』のエルファバと、中声域でパワフルな歌唱力を求められるヒロインを次々にものにしてきた稀有な女優。いっぽう田代は安定感のあるテノールで、一見王子様系のルックスながら『マルグリット』では骨太なオーラを発していた。この二人が、今回はジャズ風味たっぷりというワイルドボーンの曲をどう歌いこなすだろう。

*井上ひさし×長塚圭史×北村有起哉。こまつ座『十一ぴきのネコ』(20121月紀伊國屋サザンシアター)
 キャッチコピーに「子どもとその付添いのためのミュージカル」とある。井上が執筆時に掲げた言葉だろうか。井上ひさしのミュージカル、というと、筆者には子どもの頃に出演した『真夏の夜の夢』が思い出深い。井上が或る児童劇団のために書き下ろしたミュージカルで、現実の中にシェイクスピア作品を入れ子にし、ひねりを加えた冒険物語。台詞は簡明ながら一つ一つが生き生きとして、歌詞も歌っていて面白く、子どもごころにとても楽しかった。本作はその彼が書いた「子どものためのミュージカル」というので、我が子の観劇デビューにどうかな?と思いながらちらしをよく見たところ、対象は小学生以上。1歳の娘にはまだ早かった。…が、キャストに北村有起哉、ラッパ屋の木村靖次、新感線の粟根まことら。演出家に長塚、と個性派の名前が連なっていて、とうてい「無難な舞台」には収まりそうもない。今回は「付添い」だけで観に行くか。

*佐藤健×石原さとみ×ジョナサン・マンビィ『ロミオ&ジュリエット』(20125月赤坂ACTシアター、大阪イオン化粧品シアターBRAVA!
 「旬」の若手俳優が体当たりで演じると、得難いきらめきを放つ『ロミ・ジュリ』。今回はブラウン管での活躍めざましい佐藤健が、初舞台でこの演目に挑戦する。ジュリエットに石原さとみ、そのほかの共演陣も橋本さとし、長谷川初範、石野真子、キムラ緑子と「観てみたい」キャストだし、なによりロンドンで刺激的な舞台を発信し続けるドンマー・ウェアハウス出身の若手演出家、ジョナサン・マンビィが本作で日本初進出というのが興味をそそる。日英の若い才能が互いに遠慮なく、この「初挑戦」で火花を散らしてほしい。

  他にも、
 文学的な、奥行きのある作品で真価を発揮するダンサー首藤康之が、「鶴の恩返し」をモチーフとした新作に挑む日英共同制作のバレエ『鶴』(20123KAAT横浜芸術劇場ホール)。
 田代万里夫と、Triangle vol.2』で芸達者なところを見せていた新納慎也が出演、今年9月の初演が大入りだったという『スリル・ミー』の再演(20123月アトリエフォンテーヌ)。
 宝塚退団後初舞台の『ロコへのバラード』で颯爽と女優デビューを果たした彩吹真央が、ユースケ・サンタマリアほか曲者揃いのキャストに紅一点加わる『モンティ・パイソンのスパマロット』(20121月赤坂ACTシアター)。
 ベルギー、英国など数か国が制作にかかわり、森山未來や書道家の鈴木稲水、中国・少林寺の武僧ら多彩な出演者を、ダンス界の寵児シディ・ラルビ・シェルカウイが束ね、手塚治虫をダンスで表現する『テヅカ』(2012年2Bunkamuraオーチャードホール)などなど、束をめくっていて「おっ」と手を止めさせるちらし、多数。このうち何本観られるだろう。他にもあちこちから情報が舞い込んでくるだろうし…。乳児のいる身としては、スケジュールのやりくりが悩ましい冬となりそうだ。

2011年10月24日月曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「『女二人の戦い』劇の意外な爽やかさ」(2011.10.2明治座『大奥~第一章』)

『大奥~第一章』ふく(春日局)役・松下由樹(左)、江与(江)役・木村多江
(10月27日まで上演中。明治座 www.meijiza.co.jp/ )
写真提供・明治座 

 カーテンコールで近くの席のマダムたちがさっと立ち上がり、力強く拍手を始めた。
観客の年齢層が高く、たいていは落ち着いた空気に包まれている「商業演劇」のカーテンコールでは、珍しい光景だ。そっと表情をうかがうと、満たされた、いい笑顔をしている。2003年から放映されたフジテレビ時代劇『大奥』の今回の舞台化は、江戸時代初期という遠い時代の、将軍の乳母(春日局)と実母(江与または江)という特殊な境遇の女性たちの争いを描きながらも、現代の女性観客の心を確かに、掴んでいた。

遠い世界の物語を現代に引き寄せた要素の一つは、ビジュアル。まずは春日局や江与の絢爛豪華な衣裳が、理屈抜きに目を楽しませる。役柄に合わせてデザインされ、京都の職人によって一点一点制作されたという打掛は、安土桃山文化の華やかな残り香を漂わせつつ、それぞれに個性的。なかでも、江与が後半の一シーンで纏う「流水千鳥文友禅打掛」が印象的だ。現代ではちょっとお目にかかれない、「かぶいている」とでも形容したくなるような鮮やかな青緑の地色に、多産の彼女に因んで「夫婦円満」のシンボル「千鳥」と、人生の幾多の荒波を乗り越えてきたことを表す「流水」のモチーフ。江与役の木村多江が纏って登場すると、照明を跳ね返さんばかりに燦然と輝く。江与の「濃い」人生を凝縮したかのような衣裳、なのだ。
江与の衣裳より、「流水千鳥文友禅打掛」(写真提供・明治座)

 女性客へのアピールという面では、徳川家康、秀忠、家光の三世代の将軍役に近藤正臣、原田龍二、田中幸太朗という、演出の林徹が呼ぶところの「新旧イケメン実力派俳優」を配しているあたりも、手堅い。近藤は出番が3シーンしかないのが嘘のような大きな存在感を放っているし、気弱で三枚目的な秀忠を楽しそうに演じる原田は終盤、死にゆく妻を介抱する場面で一転、しんみりと情味を醸し出し、確かな演技力を見せている。
 しかし何よりの成功は、適度に笑いの要素もまぶしつつ長大な物語を3時間にまとめあげ、女主人公二人の生き様をすっきりと浮かび上がらせた、浅野妙子の脚本だろう。こうした「女の戦い」芝居では、対立の顛末を面白おかしく描くことに心血が注がれがちだが、本作はまず、二人のこれまでのいきさつを簡潔に回想。背景を明確にしているので、観ているほうは物見高い野次馬的感覚ではなく、より役の心に近づきながら、運命のいたずらによる二人の争いを感慨深く観ることができる。
 のちに春日局となる「ふく」は武士の妻だったが、不幸な事件がきっかけで離縁され、子供たちとも別れて上京。ようやく徳川家の乳母の職を得る。生きるため、また人生の理不尽さに対する悔しさを晴らすため、この仕事に邁進しようと心に決めている。目的を定めた「キャリアウーマン」タイプの女性である。
 いっぽう江与は、織田信長の姪という特別な環境に生まれた、いわゆる「セレブ」。世が世なら天真爛漫に育つところだが、度重なる戦乱で両親を失い、長じてからは政略結婚の具となり、子と引き離され…と悲運続きで、感情的、情緒不安定気味でもある。三度目の結婚で徳川秀忠の正室となり、今度こそ「家族」を形成し、安らぎを得たいと渇望している。
 ほぼ異次元で生きてきたこの二人が、江与の出産を機に出会う。生まれたばかりの竹千代は家康の考えによって江与から取り上げられ、ふくが養育。キャリア上のステップアップにも直結するとあってふくは熱心に職務に励むが、江与は突然現れた見知らぬ女に子を奪われた無念さを晴らそうと、次に生まれた国松を自分の手で育て、溺愛。さらには次期将軍はこの子にと願い、ふくとの対立が激化してゆく…。
 「キャリアの追求」と「子への情愛」。現代の、仕事や子供を持ったことのある女性ならごく自然に持っている二つの原動力が共存を許されず、激しく衝突しているところに、この物語の悲しさがある。和解を取り持つような第三者もなく、心を割って話す機会のないまま、二人は勝負をつけるところまで行ってしまう。竹千代の立場が危ういと考えたふくが直訴し、家康が「次期将軍は竹千代」と宣言。江与は失意と狂気の果てに倒れ、ふくは「春日局」として大奥組織を確立してゆくのだ。一見、ふくの「大勝利」、である。

 しかし、物語はここでは終わらず、それから年月を経た春日局の死までをフォローする。自分が育て上げた将軍を託せる人材に出会い、もう思い残すことはない、と心安らぐふく。するとその目の前に江与があの世から「迎え」に訪れ、二人は連れ立って旅立つ。誰にも平等に訪れる死の前では、「勝ち」も「負け」も儚い、一瞬の夢でしかない…。この「諸行無常」的な結びに余韻があって、いい。二人はこの時初めてわだかまりを越え、穏やかに語り合う。
 思えばお互い、母と子が平和に暮らせる世に向かって、懸命に生きていたのかもしれない。ふくが立派な将軍を育て、また江与が犠牲となって長男を手放したことで、徳川家は安泰となり、戦国時代が終わったのだ。二人の間に同性ならではの共感が生まれ、波乱万丈の成り行きにはらはらしていた観客もほっと胸をなでおろす。
 そして幕切れ。ふくはこの世の見納めとばかりに客席を見まわし、きっぱりと「さればこれにて、おさらばにございます。」と言い放ち、踵を返す。「素敵なキャリアウーマン」が言いそうな、潔いこの世との別れである。
 こんなふうに充実した人生を生きられたら…。
 遠い世界、遠い物語を軽々と飛び越え、そう思わせる脚本だ。バイタリティ溢れる松下由樹のふく、病床で子への思いを吐露するシーンで涙を誘った木村多江の江与、二人の渾身の演技がさらに役に魂を吹き込む。筆者も仕事を持つ女性、母ゆえだろうか。観劇後、二人の人生から思わぬ「元気」を得て、足取り軽く、地下鉄の駅へと向かった。

2011年9月25日日曜日

Today's Report [Film]東京国際映画祭、今年は「グリーンカーペット」の意義もより深く。


特別上映『がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』
©2011「がんばっぺ フラガール!」製作委員会

 六本木ヒルズを中心に、東京の秋を様々な映画で彩ってきた「東京国際映画祭」。この10月で24回目を迎えるアジア最大の映画祭概要が、このほど発表された。
 もともと、スターたちが歩くカーペットを「レッド」ではなく「グリーン」とすることに始まり、作品上映をグリーン電力で行ったり地球と人間の共生をテーマとした部門を設立するなど、環境への配慮をアピールしてきた映画祭だが、今年は3月の大震災を受け、課題先進国の日本が地球のために何ができるのか、また「映画祭だからできる」「映画を通じてできる」ことは何なのか、改めて考える映画祭を目指しているという。
自然との共生をテーマとした10本を上映する『natural TIFF』部門に加え、今年は特別上映として、『震災を越えて』部門を特設。ワールド・プレミアとなる『がんばっぺ フラガール! ~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』(小林正樹監督)など、被災地のリアルな声を届ける3作品を上映する。 このほか、例年TIFFで行っているグリーン募金の延長として、今年は被災地での上映活動「シネマエール東北」への募金も同時に行い、協力者にはグリーンのリストバンドが配布される予定だ。
『アルバート・ノッブス』右・グレン・クローズ
©Morrison Films / Chrysalis Films 2011
映画祭の華、コンペティション部門も今年は豊作。
前年比17%増の975本のエントリーがあり、このうち選出された15本が「東京サクラ・グランプリ」を競う。60歳の木こり(役所広司)と新人ゾンビ映画監督(小栗旬)が出会い、心を通わせるコメディ『キツツキと雨』(沖田修一監督)をはじめ、問題児揃いの学校で教鞭をとる教師(エイドリアン・ブロディ)を描いた『デタッチメント』(トニー・ケイ監督)、香港ホラーの雄、オキサイド・パン監督の3Dホラー『夢遊 スリープウォーカー』などジャンルも国も多彩な作品が集うが、個人的にはジェイムズ・ジョイスに影響を与えた作家ジョージ・ムーアの短編小説をロドリゴ・マルケス(『彼女を見ればわかること』)が映画化した『アルバート・ノッブス』をまず、観たいところ。女性の社会進出がままならなかった19世紀のアイルランドで、男性と偽り、ホテルで執事として働く女性の、はかない恋物語である。予告を見た限りでは、主人公役グレン・クローズはさすがに声は女性のそれだが、オールバックの髪形でパリッとスーツを着こなした姿は、初老の執事そのもの。コロンビア人のマルケスがアイルランドの有名とは言い難いこの物語のどこに惹かれ、どのように映像化しているか、興味深い。
他にも恒例の「アジアの風」部門、「日本映画・ある視点」部門、「WORLD CINEMA」部門、特別招待部門など魅力的なプログラムが映画祭にはひしめいている。上映スケジュール表とにらめっこしながら鑑賞予定を立てるのが楽しみな9日間である。

「第24回東京国際映画祭」1022日(土)~30日(日)六本木ヒルズ(港区)ほか
http://www.tiff-jp.net/ チケット発売日:108日(土)前売り鑑賞券発売開始
問い合わせ ハローダイヤル(921日~1030日)日本語:035777860005055418600(全日8時~22時) 英語:0354058686(全日9時~18時)