2013年3月4日月曜日

Theatre Essay「非・主流ミュージカル」の抗い難い魅力(2013.3.1『ノートルダム・ド・パリ』シアター・オーブ)


『ノートル・ダム・ド・パリ』上演中~3月17日東急シアターオーブ、
その後大阪・名古屋で上演。
写真提供:東急シアターオーブ
 映画からディズニーアニメまで、これまでにも繰り返し取り上げられてきたヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』。そのミュージカル版として1998年にパリで初演された本作を、筆者はロンドンで2000年に観た。
それから12年、日本での公演が実現した。「やっと」、という感慨がある。というのも、その頃、本作に関しては日本における翻訳上演の交渉がなされていて、筆者のなかでは「じきに日本でも観られる」ような気がしていたのだ。帰国後、関係者から「これと《某》という演目を検討しているのだけど、君はどちらがいいと思う?」と尋ねられ、「どちらも上演していただきたいですが、好みとしては《ノートルダム》です」と答えたこともあったし、ある美声の俳優を取材していて、ひそかに本作のクァジモド役を狙っていることを知り、「ロンドン版ではこの役、猛烈なだみ声の歌手が歌ってましたよ」と言うと「僕、だみ声出せますよ」と声音を変えて返してくれたりといった会話もあった。
 結局、翻訳上演が叶わなかった背景には、様々な事情があるだろうが、一つには、本作が際立ってユニークなミュージカルであり、そっくりそのまま翻訳上演ということが難しいと判断されたためではないかと思われる。 

 ケベック出身の作詞家リュック・プラモンドンが93年に構想を始め、イタリアの作曲家リシャール・コッシアンテとタッグを組んだ本作は、まずはアルバムのリリースからスタートし、テーマ曲をヒットさせた後、フルステージ版へと発展した。この手法は『ジーザス・クライスト=スーパースター』以降のアンドリュー・ロイド=ウェバー同様だが、決定的に違ったのが、パリでの初演のためにプロデューサーがおさえたのが、キャパシティ4000名の大ホールであった点だ。この時点で、作品は緻密さよりもダイナミズムを追求する「スペクタクル」へと舵を切り、主要キャストは歌手が、アンサンブルはダンサーたちが演じるという徹底した「分業」で音楽とダンスを「競わせ」、またその相乗効果を引き出した。(このスペクタクル形式は「十戒」などに引き継がれ、今やフランスミュージカルの特色の一つともなっている。)
「強烈なだみ声」の持ち主、ガルーをはじめとした個性的な歌手たちは、「ヨーロピアン演歌」ともいうべき、ポップだが独特の憂いをたたえた楽曲を熱唱(このオリジナルキャストの大半はロンドン公演にも出演している)。対して、ダンサーたちはネザーランド・ダンス・シアター(NDT)出身のマルティーノ・ミューラー振付による、地上はもちろん壁をも駆け巡り、大鐘をスイングさせるという、アクロバット要素満載のコンテンポラリーダンスを炸裂させた。観客は熱狂し、750回に及んだパリ公演は250万人を集客した。
だが、会場がコンパクトになれば、見え方も変わってくる。ロンドン公演はパリ公演の半分のキャパシティの劇場で行われたが、筆者は舞台を観ていて、ふと「紅白歌合戦」を思い出してしまった。大ホール仕様で作られているためか、特に曲間における主要人物たちの演出(もしくは演技)があっさりしていて、ドラマ的な連続性に欠け、ミュージカルと言うよりは左右から交互に歌手が登場しては歌うコンサートのように感じられる瞬間があったのだ。日本で上演するなら、やはり2000席前後の劇場でということになろうから、翻訳上演にあたってはここに手を入れられるかどうか、つまり新演出の可否が交渉のポイントとなったであろうことは、想像にかたくない。もう一つ、照明や装置で多用された近未来的?な紫や緑も、日本人的な色彩感覚からするとあまり親しみやすいものではなく、ここも交渉のポイントになっていたかもしれない。 

にもかかわらず、『ノートルダム・ド・パリ』は筆者にとって忘れられない演目だったし、業界内でもこの12年の間、「好きなんだよね」という声はあちこちから聞かれた。今回の来日公演は、この作品の何がそれほどまでに引力を持つのか、再確認する機会となった。
まずはその楽曲。
冒頭の「The Age of the Cathedral」は、物語の水先案内でもある詩人グランゴワールがつぶやくように歌い始め、サビに入ると2オクターブ近く音が上がってゆく。数百年の時を一気に通り抜けてゆく快感を、声一つで観客に味わわせるナンバーだ。
Belle」ではジプシー娘、エスメラルダへの許されぬ恋に身を焦がす、ノートルダムの鐘つき男クァジモド、大司教フロロ、近衛兵フィーバスの独白が交錯する。浮揚しかけてはためらうように下がるメロディが、3人の悶々とした心模様を描きだす。フランスでシングルカットされた際には33週にわたってチャート1位となった。
2幕のハイライト「Live for the One I Love」。無実の罪で捕えられたエスメラルダは脱獄し、月を見ながら「愛のために生きたい」と儚い夢、生への執着を切々と歌い上げる。じっくりと時間をかけて上下するメロディは、英語版サントラで歌っているセリーヌ・ディオンのように、繊細な表現力とパワフルな声を併せ持つ歌手が歌ってこそ生きてくる。
このように、階段を上下するようなメロディを多用したコッシアンテの楽曲は、言葉、声を乗せやすく歌い手がいかようにも膨らませることが出来、作品のダイナミズムに大いに貢献している。今回の来日キャストもそれぞれに個性的だが、特にフロロ役のロバート・マリアンが出色だ。フランスやカナダ、英米など数か国で『レ・ミゼラブル』に主演した「ジャン・バルジャン」役者の彼は、「正義」を体現するかのような堂々たる体躯。線が細く、いかにも「悪役」然としていたパリ・ロンドン版の役者とは対照的な彼が参加したことで、今回の舞台では、単に「性欲に目覚めた宗教者の暴走」ではなく、厳格な旧世界の秩序に忠実に生きてきた人間が新時代の到来を知り、秩序崩壊の予感におののき、その象徴として出現したエスメラルダに極端な感情を持つ経緯が浮き彫りにされている。2幕はじめに詩人クロパンとルネッサンス、大航海と外界で起こっている事柄について語り合う「Talk to me about Florence」では、フロロのそうした苦悩が鮮やかに照らし出され、時代の変わり目にその波に乗り切れない人間の悲しさが滲みもする。この人の歌を聴くだけでも、今回の公演を観る価値はある。
もちろんそのほかの歌手、とりわけ粘っこい歌唱のエスメラルダ役アレサンドラ・フェラーリも持ち味を発揮しているし、ダンサーたちのエネルギッシュなダンスは名もなき、被差別の憂き目にあってきたジプシーたちの生への情熱を余すことなく表現している。別々に存在するように見えたダンサーたちと歌手たちが後半の脱獄シーンで一気に一体化し、エスメラルダの亡きがらを抱きながら「私のために踊ってくれ」と絶唱するクァジモドの願いを聞き入れるかのように、彼女の魂に見立てて後方に横たわる女性ダンサーたちがふわりと宙に浮き、たかだかと昇天してゆくカタルシスに満ちた幕切れは、この「分業」式演出の有効性を雄弁に語っている。

まずブックがあり、音楽があり、歌もダンスもこなす役者がいて…という、これまでのミュージカル形式からすれば「非・主流」と呼ばれるかもしれないが、それでも『ノートルダム・ド・パリ』には抗うことのできない魅力があり、ミュージカルの新たな可能性を呈示してもいる。
今回、日本でその全貌をあらわしたことで、今後ソロコンサートで本作のナンバーを歌うミュージカル俳優が増える予感…、そして改めて翻訳上演を待望するファン急増の予感、大である。

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