2014年5月3日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感 染五郎が蘇らせた幻の“夢”ものがたり(2014.5.2「明治座五月花形歌舞伎」『邯鄲枕物語~艪清の夢』)


明治座『五月花形歌舞伎』2014年5月2日~26日 http://meijiza.co.jp
 
夢の中で栄耀栄華を味わった若者が、目覚めてみるとまだほとんど時間が経っていないことから、人生の儚さを知るという中国の故事「邯鄲の枕」。 

これをモチーフに元治2年(1765年)に江戸中村座で初演された『邯鄲枕物語』は、昭和4年に二代目猿之助が演じて以降、しばらく忘れられていたが、平成5年、9代目澤村宗十郎が「宗十郎の会」で復活。その公演を観て「いつか自分も」とあたためていた染五郎の手で今回、明治座花形歌舞伎公演での上演が実現することになった。筆者もそうだが、現代のほとんどの観客にとって、初見の演目ではないだろうか。 

原作の主人公は夢の中でほぼ「一生」を体験し、人生の儚さを悟るが、歌舞伎版のストーリーはもっと軽妙だ。借金を抱えた職人、清吉(染五郎)が、女房(壱太郎)が飯の支度をしている間に夢を見る。清吉は大坂で、昼は男だが夜は女になってしまうという豪商(歌六)に亭主になってくれと迫られたり、大臣の官職を授かり、月に一万両の小遣いを使わなければならなくなったり、外出すれば追剥ぎならぬ「追剥がれ(亀鶴)」にさらに大金を押し付けられたり。大金を使おうと新町に行けば、傾城(壱太郎)もまた金がありすぎて困っているという。同じ境遇同志、二人は心中を決意…というところで夢が醒め、枕にしていた箱の中身が判明。結構すぎる夢の謎も解けてめでたし、めでたしとなる。 

「振り回される主人公」こと清吉は上品な持ち味の染五郎に良く合い、廓の場でのラメできらきらした紙衣もこの人が着ると悪趣味ではなく、美しく見える。二役の壱太郎は若手ながら作品のとぼけた空気感を掴んでいる感じで、傾城役に風情。豪商役の歌六、追剥がれ役の亀鶴が余裕を漂わせつつ楽しげに怪演し、作品を盛り立てる。宗十郎の部屋子で、彼の忘れ形見的な存在である澤村宗之助が大臣職の授与を告げに来る内侍役を演じ、堅実な芝居を見せている。 

夢の間は出てくる登場人物誰もが「金=厄介もの」という価値観で行動するため、はじめは「そんなナンセンスな」と笑っている観客も、次第に「常識」を揺さぶられ、奇妙な浮揚感に包まれる。この芝居で昼の部が終わり、劇場の外に出ると、夢物語のふわりとした余韻が柔らかな午後の日差しと薫風を受け、心地よく残ってゆく。この季節にぴったりの演目だ。 

昼の部は他に『義経千本桜』「鳥居前」と『釣女』を上演。前者は、きっぱりと大きな芝居をする歌昇の忠信、すっきりとした隼人の義経、古風な美しさのある米吉の静御前がそれぞれニンに合い、今後も定期的に観たい顔合わせだ。『釣女』の醜女役はただ単に笑いをとるか、醜さによる悲哀が強調されることが多いが、亀鶴の演じる今回の醜女は“亭主を尻に敷く妻”を、ほどほどの化粧と時折見せる笑顔でチャーミングに演じている。現代女性としてこれまでで最も“観ていて違和感のない『釣女』”に見えた。

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