2011年5月12日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「胸震わせる、恋の歌」(2011.4.10 石丸幹二ソロコンサート「spring with kanji ishimaru」)

「spring with kanji ishimaru」撮影:山路ゆか
2011.410 石丸幹二ソロコンサート「spring with kanji ishumaru(日本橋三井ホール)

 先日の記事で、震災後の私たちの応援ソング候補に、と提案した「春の唄」。
CDでこの曲を歌っている石丸幹二がリサイタルを行うというので、出かけてみた。
会場はほぼ満員。ポップス歌手のコンサートのような熱気むんむんというのではなく、大方を占める女性客の醸し出す落ち着いた期待感のなか、バンドのメンバーが登場し、イントロを奏で始める。
「春の唄」。さっそく、目当ての曲だ。下手から、スーツ姿の石丸が登場。
♪春を告げる風吹いて 新しい何かが始まるよ…♪
楽しさ、力強さを兼ね備えた歌いだしは、CDのまま。
だが、「新しい」という語句を、石丸はことさら、キャビネットに可憐なティーカップを飾る動作のように「そっと」置き、そのあとの「始まるよ」も丁寧に、優しく発した。
何かを大声で言われるより耳元でささやかれたほうが説得力があるのと同じで、この歌唱なら、「新しく何かが始まる」という歌詞がより際立ち、聴き手の中で希望がふつふつと漲ってくる。
楽譜に書かれた通り歌うことのできる歌手は大勢いるけれど、こんなふうに、言葉をも含めて歌を膨らませ、自在に歌える歌手はそう、多くない。音大ではじめサックスを専攻したことで自分の声を楽器的な感覚でとらえることが出来、また数多くのミュージカルやストレートプレイに主演、膨大な音符や言葉と対峙してきた彼ならではの業(わざ)だろう。
以降、石丸の気さくなトークを差し挟みつつ、コンサートは進行。CD収録曲を中心とした持ち歌が次々と披露されるなか、とあるシーンにはっとさせられた。歌ったのは16世紀イギリスの古歌「グリーン・スリーブス」。ヘンリー8世が後に妻となるアン・ブーリンのために作ったとも言われる、「緑の袖を着たつれない女性」への片思いの唄である。
石丸は最近、出演した舞台『十二夜』で吟遊詩人を演じるくだりがあり、演出家・串田和美の「何か工夫して」とのリクエストから、ハープを手に、この歌の旋律で或る物語を歌うことを思いついたのだそうだ。これを再現してみたい、と彼は椅子に腰かけ、小型ハープを抱きながら歌い始めたのだが、驚いたのはその替え歌の内容。か細くも凛としたハープの音に乗って語られたのは、「半身信仰」だったのだ。
ヨーロッパで太古の昔から信じられ、多くの神話に影響を与えてきた「半身」の概念は、男女の愛の由来を説明するものである。(拙著「アイルランド民話紀行」でも言及している。)
…昔、人間には男も女もなかった。
それを寂しく思った人間は神に訴え、神は願いを聞いて人間を二つに引き裂く。
男と女である。
二人は飽くことなく互いを見つめあうが、時の流れとともに別々に行動するようになる。
やがて互いの姿が見えないことに気づいた二人は、その喪失感から、かつて自分の半身であったところのパートナーを求め続ける。
…これが「半身信仰」による、男が女を、女が男を求め合うゆえんである。
石丸は「グリーン・スリーブス」の憂いに満ちたメロディに乗せて、この物語を穏やかに語った。
森の奥深くに迷い込んだ男と、小川のほとりを惑う女。
二人は互いを見つけることができない…。
石丸の声とハープというシンプルな音編成が、聴衆のイマジネーションをかきたてる。
そして、男が女を思いながら、疲れて眠ってしまうという幕切れにはいいようのない切なさが漂い、客席は一瞬、深い静寂に包まれた。

 震災以降、昔の彼氏に連絡するOLが増えているという。
 あまりにも多くの人々が一瞬にして家族や恋人を失ったことをニュースで見聞きし、それまで仕事第一に過ごしてきた彼女たちの中にふと、「人恋しさ」という感覚が甦ったということらしい。
 女性に限らず、それまで「脳」先行で生活してきた人々が、一種原始的な、「肌」レベルの感覚に立ち返り、「人」を希求するという現象は、日本各地で起こっているようだ。筆者の周りでも俄かに婚活に励みだした未婚男女がいる。
 そんな日本の「今」の空気に、この「グリーン・スリーブス替え歌」は思いがけなく、ぴたりと合致する一曲だった。
石丸は秋にもリサイタルを予定していて、次回はジャジーなプログラムにするということだが、出来うるなら再び、この歌…この物語を聴き、胸震わせるような太古の感覚に浸ってみたい、と思う。

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