2012年9月4日火曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『痛快時代劇』に終わらない、人の『闇』を描くドラマ」(2012.8.16『大江戸緋鳥808』明治座)

「大江戸緋鳥808」大地真央、東幹久
写真提供:明治座
 新米編集者時代、石ノ森章太郎先生の『マンガ日本の歴史』を担当する部署に仮配属されていた。
担当といっても、新米が先生にお目にかかれるのは原稿受け取りの瞬間ばかり。スタジオに赴き、隣室で待機していると、ことりと扉が開き、先生の姿が覗く。はらりと降りてくる一、二枚の原稿を押し戴き、インクが乾いているのを確認して茶封筒に入れ、会社まで大切に持ち帰る。ぱらぱらとみてしまいがちな漫画だが、その一ページ一ページはこんなにも手間暇をかけて生まれるものか、と感じ入ったことが懐かしく思い出される。先生もアシスタントさんも、みな優しかった。

 今回の舞台はその石ノ森先生の『くノ一捕物帖』シリーズが原作。元・くノ一のヒロイン・緋鳥らキャラクター数名の設定を借りてはいるが、原作のお色気要素(裸で立ち回りをしたりする)は排され、ご落胤を巡る陰謀と戦ううち自身のさだめに苦悩する、彼女の「闇」に焦点を当てている(脚本・渡辺和徳)。反社会的な忍び集団の頭の娘に生まれ、かつて父をお上に差し出して集団を抜けた緋鳥。父の大蛇(おろち)は獄死したと思われていたが、権力を狙う老中・酒井のたくらみで生かされ、ご落胤暗殺の命を受けてひそかに脱獄。花魁・高尾太夫という仮の姿を持ちながらもひそかに正義の老中・松平に仕え、江戸の治安のために働いていた緋鳥は、再度父と対決することになる。
元宝塚トップの湖月わたる、貴城けい。そして原田龍二、山崎銀之丞、東幹久といった主演クラスの俳優たちが演じる、個性豊かなキャラクターたちに囲まれ、大地真央の緋鳥は、花魁のなりでは華やかで美しく、町娘に戻れば江戸っ子らしくさばさばとして頼もしい。だがその真価が現れるのは、彼女が己のさだめに立ち向かうクライマックスだ。観ている側も背中をただすような迫力で悪をたしなめ、父が襲ってきた本当の理由に気づかされると、全身を震わせるように煩悶する。『マリー・アントワネット』(2006年)でも感じたことだが、大地はそのスター・オーラやコメディセンスもさることながら、こと苦境に陥るシーンの芝居がいい。己の全てを投げうち、魂を込めた様には、「演技」「段取り」を感じさせない新鮮さがある。
 その彼女に対する大蛇は、超人的な「悪」として登場し、はじめはおどろおどろしさを見せつけるが、次第にその心情をあらわしてゆく。彼は差別への復讐を原動力として生きてきたが、そのいっぽう、娘には緋「鳥」と名付け、忌まわしい境遇から大空へと飛び立つことをひそかに願っているのだ。この「怪奇味」と心情表現のバランスをどうとるか。歌舞伎の新作なら鼠に化ける「先代萩」弾正のこしらえを借りるなど、「型」を利用することもできようが、今回のようなリアルな芝居ではそうもゆかず、なかなかの難役と見える。演じる隆大介は、娘への思いを吐露する台詞で、一瞬にして「怪物」に人間の血を通わせていて、この役に新劇の演技派が配された理由が納得できる。痛快、華麗なアクション時代劇としてまとめることもできるところを、暗く、屈折した父娘愛を中核に据えることで、本作は陰影を与えられ、ほどよい重さで余韻を残している。石ノ森先生も、こういう形なら「舞台化も、ありなんじゃないか」と頷かれるのではないだろうか。
映像を活用して大仰なセットを排し、スピーディーに場面をたたみかけてゆく序盤の演出も、漫画を読むテンポを髣髴とさせ、好感が持てる(演出・岡村俊一)。時代劇はシリーズ化してこそ楽しみが増すというもの、共演陣も十分すぎるほど充実していることだし、「新・大江戸緋鳥808」、「続…」と続いてもいいように思う。

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