2011年1月1日土曜日

Theatre Essay  観劇雑感「金久美子さん。」(2010.11.25「アジアン・スイーツ」)

「アジアン・スイーツ」(ザ・スズナリ)

 お嫁に行き遅れている姉。自分の中の「女」を抑えられない母。失職した弟。結婚生活がうまくいっていない、姉の幼馴染み…。
そんな4人が容赦なくぶつかりあい、互いをさらけ出しながらも、絆、あるいは腐れ縁を結びなおしてゆく。
閉塞感の中でもがく人々のドラマに「スズナリ」という濃厚な小劇場空間はぴったりで、それゆえ、「姉」を先頭に彼らが一人ずつ舞台を去ってゆく幕切れには、感動的なまでの解放感が漂う。しかしそれに加え、今回、或ることを意識していた観客はきっと、深い思いに包まれたことだろう。
本作は2004年に亡くなった女優・金久美子(キム・クミジャ)のために鄭義信が書き下ろし、彼女が最後に主演した芝居なのだ。
それ以来の再演だという今回の公演。このことを意識して観ると、落ち着いて見えながらもやり場のない鬱憤を抑え込んだ「姉」役を、体当たりで演じる鶴田真由の姿に、どうしても金久美子がだぶってしまう。
筆者自身はその生の舞台は数えるほどしか見ていないが、それでも、金久美子という女優は印象の強い役者だった。
中でも鮮烈だったのが、新宿梁山泊の「少女都市からの呼び声」(93年)のヒロイン、雪子役。背筋がぴんとして発声も清々しく、役に全てを捧げているような潔さがありながら、時折、謎めいた微笑を浮かべ、人間的な奥行きを感じさせた。雪子の「ガラスの子宮を持つ少女」という荒唐無稽な設定にも、この人が演じると不思議な説得力があった。
そんな金が今回の芝居に出ていたら…、こんなシルエットでここに立っただろう、この台詞はこんな調子、こんな間合いで言っただろう、などと想像してしまう。観客一人びとりの心の中で、女優・金久美子は今も鮮やかに、役を演じることができるのだ。
40代という、俳優として脂ののった年代でこの世を去らねばならなかったことは悲しいことだが、人としては、こうした形で生き続けることが、ある種の理想なのではないか…、という気もする。
おそらく、鶴田真由はこういったすべてを承知で、この役を彼女なりに演じたのだろう。「姉」が万感の思いで客席(設定では、「姉」の店)を見まわし、去ってゆく幕切れ。まるで誰かに何かを語りかけているかのように、丁寧に、心を込めて宙を見つめ、ゆっくりと踵を返す姿が印象的だった。

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