「Theatre Essay シアター・エッセイ 観劇雑感」について
劇評、ではありません。
舞台を観ながら感じたもろもろのうち、一つ二つを記してみました。
公演期間の短い日本では、記事化する頃には終わってしまっている舞台も多いかと思いますが、本欄を見て、言及した作品に限らず「こんど劇場に行ってみようか」と思ってくれる方が一人でも増えれば、嬉しい限りです。
「ファントム」(赤坂ACTシアター)
もしも、その醜さのため、生まれてからずっと地下世界に閉じ込められたとしたら、どんな人間が育つだろうか。
他との交わりがない中で社会性が欠如し、絶望と怨恨の化身となって、罪を罪とも思わず犯すようになるかもしれない。
その一方では純粋培養ゆえに、この上なくイノセントな面も持ち合わせるだろう。
本作がそんな主人公の苦悩と救済に焦点を置き、同じ物語を原作としながらも愛の三角関係を主軸としたロイド=ウェバー版とは大きく異なることを、この舞台は何より「声」で伝えている。
主人公のエリック、通称「怪人」は開幕早々、オペラ座の従業員をめった刺しにして殺害する。だがその残忍な所業とはうらはらに、このシーンで彼が発する声には、どこかぬぐい難いぬくもりが滲む。演じ手、大沢たかおが持って生まれたこの声質は、怪人には不似合いではなかろうか? そう、引っかかりを覚えさせる導入だ。
しかし物語が進み、二幕の冒頭が始まるころには、現代ならさしずめ「児童虐待」と言うべき怪人の哀しい生い立ちと苦悩が明らかとなり、彼への嫌悪感は揺らぐ。そして怪人がクリスティーンの声に、今は亡き母と同じ「闇に差し込む一条の光」を見出だし、彼女を不器用にも愛そうとする様を目撃するうち、人間は本来、完全な悪にも善にも染まるわけではない、と示唆するこの舞台には、大沢の、本質的に温かなこの声こそが必要だったのだと気づかされる。
「お母様はかつて、(醜く生まれた)あなたを見て微笑まれたのでしょう?」
私もそうできるから、とクリスティーンは怪人に素顔を見せるよう促す。その言葉に母の再来を感じて怪人は仮面を取るが、ひと目見た彼女は恐れおののき、去ってゆく。彼女の中に、母の愛に匹敵するような無償の愛は無かったのである。ここでクリスティーンと怪人の「光」と「闇」は入れ替わり、彼女は無意識のうちに残酷な存在と化し、怪人の純粋な心は深く傷つく。
登場人物の一人は「クリスティーンの声はエリックの母親の声にそっくりだ」と言い、怪人も終盤、「クリスティーンの声を聴けて良かった」と言う。しかし、クリスティーンは彼の母親に「似た声」を持っていたまでであって、彼を救ったわけではない。彼が最終的に救いを得たとすれば、それはクリスティーンの声をきっかけに自ら、人を愛することを学び、忘れかけていた人間性を再生して行ったということに他ならない。
この人間性の象徴が、彼が知らず知らず母親から受け継いでいたもの…「声」なのである。幕が下りてもなお、耳に残る大沢たかおの声。それは劇中、一度も登場することのない怪人の母の存在を感じさせるものでもある。ずしりと重く、けれども温かく。
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