2010年12月4日土曜日

Theatre Essay観劇雑感「演じ手も観る側も」(2010.11.18 劇団四季『スルース』)

劇団四季「スルース」(自由劇場)
 演じるのが実に楽しそうだ、と思わせる役がある。
例えば歌舞伎「髪結新三」の長屋の家主。主人公が悪事で得た大金を、「ちょいとごめんなさいよ」とばかりにひょいと登場し、巧みに言いくるめてせしめてゆく。その老獪な風情とせりふ回しはいい役者の腕の見せ所なのだが、本作のドプラー警部も同様だ。
ぼさぼさの髪に着こんだコート、「…なんですわ」という野暮ったい口癖。いかにもうだつがあがらないようでいて、捜査を始めると一転、眼光鋭く、ささいな矛盾にもくらいつく。  
ところがこの男には、実は劇中のあるキャラクターがひそかに変身した人物である、という「仕掛け」がある。よく考えればドプラーという名前からして、同じ音でも振動数の変化によって異なって聞こえる科学現象名そのものだ。
作者のアンソニー・シェファーがいかにもにやりとしながら、演技者に「どうぞ存分に作りこみなさい」と委ねているかのようなこの役を、今回演じる下村尊則は浅利慶太の演出のもと、丸めた体、くぐもった声といった身体的な特徴からちょっとしたしぐさ、「ドプラー節」に至るまで緻密にこだわり、作りこんでいる。「実はあの人物?」と推理する手掛かりとなりそうな、もともとのキャラクターと同じ、上着を頻繁に触る癖。ペンを手帳に打ちつけながら、歌舞伎の名ぜりふよろしくたっぷりと聴かせる追及のせりふ。正体が明らかになると一転、てきぱきと仮面を剥いでゆくテンポの良さ…。
ディテールの一つ一つから、下村はあんなふうに、こんなふうに工夫して行ったのかしら、と想像出来て楽しい。演じるという仕事の醍醐味の一端を、観ている側もシェアできる役である。

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